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Writings

セルゲイ・ボドロフ監督「コーカサスの虜」を鑑賞

先日の日曜、渋谷に出たついで、特に目的もなかったのだけど、HMVのDVDのコーナーに立ち寄った。今日は絶対買わないと思って心に決めてお店に行ったのだけど、やっぱりダメですね。物欲を抑えきれず、映画のDVDを3本買ってしまいました。

この日買ったのは、セルゲイ・ボドロフ監督の「コーカサスの虜」、サリー・ポッター監督「耳に残るは君の歌声」、私の大好きなニキータ・ミハルコフ監督の「光と影のバラード」(デジタル・リマスター版)。後の2本はもう何度も観てる作品なのだけど、「コーカサスの虜」はタイトルを知ってただけで未見の作品でした。以前「ベアーズ・キス」という映画をwowowでたまたま観てとても印象に残って、それと同じ監督と知って、ただ勢いで買ってしまいました。
で、昨日疲れて家に帰ったはずが、朝の4時に目が覚めてしまい眠れなくなったので、この作品を観てみることにしました。ロシアとチェチェンの間の紛争を題材にした重いテーマを扱っているということだったので、疲れてる時にそういうものを観るのはどうかと思ったのだけど、まぁ、途中で寝てしまったらそれはそれでいいかなって思って。でも良い意味でその予想は見事に覆されました。とにかく素晴らしい映画! 最後まで夢中で観てしまいました。ラストの悲しい結末には思わず胸が苦しくなってしまうのですが、何とも言えない余韻がずっと後まで残ります。そして、いろんなことを考えさせられる作品でもありました。

毎日TVでは、様々な地域での戦争、紛争、報復行為、殺戮の映像が繰り返し映し出されます。でもそういう映像を見ていても何故かリアルなものとは感じられず、戦争について、人と人との争いについて深く考える契機を持ち得ません。それは自分自身の意識の持ち方の問題でもあるのですが、メディアの報道のあり方の問題でもあり、なかなか自力では乗り越えていけない難しい問題が横たわっているのだと思います。ふとすると、考えること自体あきらめてしまいそうになります。けれどもこういう優れた作品に触れたとき、物事の奥底にある大事な問題の本質を、やっと少しだけ垣間みることができる気がします。

「どうしたら戦争をやめられるのか、私たちにはわからない。戦争を始めることは簡単だが、終わらせることは難しい。人を愛することより、殺すことの方が簡単なのだ。でも、私たちは努力すべきだ」——これはDVDのパッケージに綴られていた監督の言葉。最初見た時は気にかかる言葉ではなかったのだけど、映画を観終わった後、あらためてこの言葉を読み直してみると、「でも、私たちは努力すべきだ」の言葉に、特別な想いが込み上げてくる。確かなものは何もないのですが、この映画の感動の余韻の中で、私はそんなことをぼんやり感じました。
http://www.showtime.jp/info/cinema/00012/

ところでこの映画、映像の雰囲気・質感が独特で、私は観始めてすぐに「あぁ、すごく親しい感じがする」という気分で、とてもうれしくなってしまいました。古き良きソビエト映画の雰囲気を引き継いでいる作品であることはよくわかったのですが、それにしてもこの感覚はなんだろう? すごく自分好みな映画の肌触り・・・と思いながら映画を観ていたのです。で、DVD特典のスタッフキャストを見てびっくり。撮影監督がなんと、パーヴェル・レベシェフ。ミハルコフ監督の常連のスタッフでした。「あぁ、だからなんだ〜」と一人で合点してしまいました。そういえば主演の一人は「太陽に灼かれて」のオレグ・メンシコフだし、村の可愛らしい女の子はエレーナ・ソロヴェイとなんとなく面影が似てる気がするし。なんだか作品そのものがミハルコフ作品(「黒い瞳」以前のもの)へのオマージュのようにも思えてきます。ちょっと偏った見方かもしれませんが。

この日買ったDVDはなぜかみんなロシアにつながりのものでした。自分ではそういう意識はまったくなかったのですが。たまたま気分がロシアに向いてたのかもしれませんね。

オネーギンの恋文

onegin.jpg深夜のNHK-BSで「オネーギンの恋文」というイギリス映画をやっていた。まったく前知識なしに、途中からぼんやり見ていたのだけど、じわりと心に響いてくる、なかなかいい映画でした。主演はレイフ・ファインズ、リヴ・タイラー。監督はレイフ・ファインズの妹、マーサ・ファインズ。ロシアの文豪プーシキンの原作を映画化したもの。
作品の中で印象的だったのが、主人公=高慢で身勝手な貴族の男が、ヒロイン=田舎育ちではあるが才女で情熱的な女に、本を貸すシーン。ヒロインが「何か本を貸してくださらない?」と男に頼むと、「そうだ、いい本がある。新しく入ったばかりの本だ」といって差し出すのが、ルソーの「新エロイーズ」だったのだ。「新エロイーズ」はルソーの著作の中でもかなり異色な作品。貴族令嬢の娘と、家庭教師との間で交わされる書簡(=恋文)の形式で綴られた恋愛小説。そしてかなり風変わりではあるけれど、ルソーの思想の要が実はそこにあるのではないか、と評されていたりもする。ルソーという人は本当に面白い人で、言ってることがいつもバラバラでとりとめがなく、矛盾だらけ。でもバラバラのような論説が全体としてはなんとなくつながっていて、ちゃんと筋道が通っている・・・という不思議な思想家。だからこそ魅力があって、多くの人を魅了する。私も一番好きな思想家。たくさんの影響を受けた。
昨日友人と飲みながら話をしてるうちに、ひさしぶりにふと、ルソーの名前が出たりした。その後家に帰ってテレビをつけたら、またルソーの名前と出会ったので、なんだかとても不思議な気分。またルソーの本を読み返してみたくなった。途中で挫折してしまった「新エロイーズ」。もう一度チャレンジしてみようかな。

どうでもいいけど、リブ・タイラーって、やっぱりきれいですね。特別好きな顔立ちの女優さんではないのだけど、映画の中ではひときわ美しく輝いて見えます。独特な雰囲気、魅力を持った女優さんだと思います。

ピーター・ウィアーDVD BOX

中野ブロードウェイの小さなDVD屋さんに立ち寄ったら、『ピーター・ウィアー DVD BOX 1』なるものを発見して大興奮。オーストラリア時代に撮った貴重な4作品が収録。何と言っても、私の一番好きな映画の一つ「ピクニック at ハンギング・ロック」(永く廃盤になっていた)が収録されたことに感激!!!! もう舞い上がってしまって、衝動買いしてしまった。定価15,750円はかなり痛かったけれど・・・。

ピーター・ウィアーは私のもっとも好きな監督の一人・・・でした。過去形になってしまうのは、近年の作品がどれもちっとも面白くないから。そもそもハリウッドに入ってからの作品はどれもぱっとしない。「刑事ジョン・ブック 目撃者」だけは別格で、素晴らしい作品だった。「グリーン・カード」も、とても後味のいい作品。でも、もっともっといい映画が撮れる監督だと、私はまだ信じてるのだけど。

このBOXは、あえてオーストラリア時代の作品に限定したところがすばらしいと思う。オーストラリア時代のピーター・ウィアーの作風は、非常に難解でストーリー展開に起伏もないから、正直とても取っ付きにくい。でも独自な映像センスが際立っていて、作者が何を言いたいのかわからないまでも、とにかく印象に深く残るものだった。

私は映画を評価する上で大事なのは、その映画を「理解」できるかどうかではなく、その映画を観ることが自分の内でひとつの「体験」になり得るかどうか、にかかっていると思う。そういう意味で、ピーター・ウィアーの作品の出会いは私にとって、とても大きな出来事だった。もう15年くらい前のことだけど。今でもその時の印象を思い出すと身体がゾクゾクするようだ。劇場ではなくDVDで、それが再現できるかわからないのだけど・・・でもこのBOXは私にとって、間違いなく、宝物のひとつになるでしょう。

愛と祈り

先日友人と飲みながら話をしていた時に、ふと『TV版・大草原の小さな家』の話題が出て、ひさしぶりに見返したい気持ちになった。夜中に部屋の奥の収納をかき回して、高校生の頃にビデオで録画してたテープをひっぱり出してみた。かれこれ二十年くらい前のものなので、テープの状態がかなり悪くなっていたけれど、かろうじてまだ再生することができた。今も大事に、私の手許に残っていた数遍のエピソードのひとつが「愛と祈り」だった。

さっそくテープを回してみると、その冒頭のオープニングを見ただけで、急に胸が熱くなってしまった。私はリアルタイムで番組を見ていたわけではなく、見始めた時はもう何度目かの再放送だったと思う。最初は何の思い入れもなくて、あぁ、今週もやっているなぁという程度に、なんとなく見ていたのだけれど、途中から夢中になって毎週欠かさず見るようになった。なにしろ10年以上にわたって続いた長寿番組なので、ストーリーが面白い時期、面白くない時期いろいろあったのだけど、第3〜4シーズンのエピソードが私のお気に入りだ。この頃のエピソードは、心があたたかくなる楽しい話と、ちょっと切なくなる悲しい話と、そのバランスがうまく保たれていたように思う。

「愛と祈り」は第3シーズンに放映された「前編/後編」にわたる長編で、とても見ごたえがあり、『大草原の小さな家』のもっとも評判の高いエピソードの一つだ(…と思う)。長女のメアリーが重い病気で入院し、お父さんはその高い入院費を払うために単身で遠い土地へ赴き、危険な鉄道工事の仕事に就くが---という話。お父さんがトンネル工事の事故で生き埋めになって、そんな状況の中でも娘のことを想って、愛と祈りの言葉をつぶやくシーンは、もう、何度見ても泣けてしまう。ひさしぶりに見返しても、その感動はまったく色褪せない。本当にすごいドラマだったと、あらためて気づかされる。

アメリカの古き良き時代の家族愛を描いたTVドラマ・・・そう言ってしまえば、ありふれたテーマとストーリーなのかもしれない。でもそんな風に割り切って言葉にはできない、何かが、あの作品にはあったように思う。制作者も出演者もみんながあの作品を愛し、良いものをつくりたい、という想いに満ち満ちていたように感じる。それがあの作品の「いのち」のようなものなのかもしれない。だからこそ多くの人に支持され、今もたくさんの人に愛され続けているのだと思う。

魔法遣いに大切なこと

『魔法遣いに大切なこと』という、TVシリーズのアニメーション作品がある。ふとした機会にこの作品に出会って、それからこの作品のことがとても気にかかるようになった。TVでアニメーションの番組をちゃんと続けて見たのなんて、近頃ほとんどなかったことだけど。

ストーリーは、近い将来‥‥というか、現代の日本。東京の下北沢周辺が舞台。「魔法遣い」というものが架空のものではなく、ひとつの技能として社会的に、法的に位置付けられている社会(その点以外は、私たちの社会とほとんど変わらない)という設定。魔法使いの研修を受けるために、岩手県の遠野から上京してきた女の子のお話。ストーリーや設定は、特別に目新しいものではないのだけど、その描き方や視点の置き方が、かなりクールで現実味があって、また、「魔法」というものの表現の仕方にも独特な解釈が伺えて、とても良くできた作品に仕上がってると思う。

そのシリーズの第1話。主人公のユメという女の子が、上京してきた最初の日、下宿先で宅配ピザを食べながら泣きそうになるシーンがある。そのシーンを見ながら、自分が東京にはじめて出てきた頃のことを思い出して、ぐっと心に込み上げるものがあった。思うに、田舎から東京に出てきた人たちは、皆「魔法遣いの研修生」みたいなものかもしれない。‥‥なんて言い方をすると、東京育ちの方達に不公平か。言い方を代えれば、夢を形にしていく技術を身につけるために、それまで自分が慣れ親しんできた社会とは違う世界へ、あえて飛び込んで行こうとする人たちは、皆「魔法遣い」の予備生のようなものなんじゃないだろうか。それぞれ自分にある可能性を信じて、新しい世界へと踏み出して行くのだ。皆同じせつなさ、もどかしさを抱えながら。
そしてその「もどかしさ」の感触こそが、一人の良き「魔法遣い」となるための、ひとつの条件、欠かせない通過点となるのだと、物語の中で語っていたように思う。「魔法遣い」には程遠い自分だけれど、「魔法遣い」を目指して東京に出てきた頃の気持ちを、忘れないでいたい。

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