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Writings

ドリーミング

最近またケイト.ブッシュのCDを聞き直している。私は彼女の音楽を、BGMとして聞くことができない。軽率な態度で聞くことを許さない程に、彼女の音楽はあまりに深遠で、不可解で、神々しい。
殊に『THE DREAMING』の頃の彼女の音楽は、心の叫びのようなものに満ち満ちていて、胸をえぐられるような気持ちになる。純粋と狂気の入り交じった特異な世界。こんな音楽を創造してしまう才能は、もう二度と現れることはないんじゃないだろうか。本当に特別な人だと思う。

私は20代の半ばくらいの頃に、ケイト・ブッシュの音楽を毎日のように聞いて過ごした。あの当時、私はすっかり目標を失っていて、絵を描く意欲もなくしていた。今思い起こすと、心のバランスを少し崩していていたようにも思う。私は誰かに寄り掛かったりするのが嫌いだったから、誰の助けも求めずに一人でもがいていた。そんな時、ケイト・ブッシュの音楽を聞くと、心のずっと奥深いところに、かすかな明かりが灯る思いがしたものだった。以来私にとってケイト・ブッシュの音楽は、欠くことのできない大事なものの一つになっている。

さてそのケイト・ブッシュだが、前作『レッド・シューズ』を出して以降、表舞台からまったく姿を消してしまった。もうかれこれ十年くらい新作を発表していない。私はその後の事情をまったく知らなかったのだけど、どうやら子供を生んでお母さんになって、しばらく音楽活動から遠ざかっていたらしい。ところがネットで探った情報によると、現在(昨年から?)ニューアルバムを制作中らしい! 長い空白の後に、彼女がどんな音楽を聞かせてくれるのか、今から待ち遠しくてならない。

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ハインリッヒ・フォーゲラー展

001.jpg『ハインリッヒ・フォーゲラー展』を観に行ってきた。開催前からずっと楽しみにしていたのに、結局観に行ったのは終了ギリギリになってしまった。

私はフォーゲラーのことを竹久夢二を通じて知った。夢二についての卒業論文を書いたことがあって、そのための資料文献の中で、フォーゲラーという画家の名前と作品を知った。そしてある時期にフォーゲラーの絵に夢中になっていたことがあった。幻想的で物語性を感じさせる作風は非常に高い次元に昇華されていて、その豊かなイマジネーションと卓越した表現力において、同様の作品を描く画家達の中でも抜きん出た存在だった。しかし画集等をいくら探しても見つけることができず、とても悔しい思いをした思い出がある。少ない文献を手に入れるために、研究機関に手紙を書いて資料を送ってもらったこともあった。

そんなことを思い出しながらの今回の展覧会。会場につく前にこそ胸が高まっていたが、いざ作品を目の当たりにすると、案外冷静に作品と向き合う自分がいた。強く衝撃を受ける程の作品は意外に少なかった。油彩画より、やはり初期の版画や装丁・挿絵などの作品に優れたものが多かった。ロシアに渡ってからの後期にいたっては、同じ画家の作品とは思えない程、その作品世界の質が変わっていた。
20世紀初頭の激動の時代に、ロマン主義的な芸術運動の実践から次第に社会改革思想へと傾倒していく一人の画家の人生を、ドラマとして捉えれば面白がる人は多いかもしれない。しかし私はそんなことより、崇高なまでに繊細で美しかった作品世界が、次第にただ甘ったるいだけの様式美に陥ってしまう、その変容の仕方に興味がある。はかなさや曖昧さ、中性的なものに美の所在を求め、作品の主題として描いた画家達は、みんな同じ経緯をたどる。夢二も同じであった。傑出した作品を描き得るのは若い頃のほんの短い期間で、その後は霊気が去ってしまったかのように別人の絵になってしまうのだ。その理由を私は知りたい。

会場にはフォーゲラーがデザイン・設計したというベンチ椅子が展示されていた。会場の係りの人が「座ってもいいんですよ」と声をかけてくれたので、その椅子に座ってしばらく呆然と時を過ごした。たくさんのフォーゲラーの作品をぼんやり眺めながら、いろいろと考え事をした。もっと早くにこれらの作品に接することができていたら、自分にどれだけ深い影響を与えたことだろう。あまりにも長い間待ちぼうけをくって、恋い焦がれていた想いが少し褪せてしまった気がする。かつての憧れの人は今なお美しく、私の片想いは間違いではなかったと知ることができた。でもちょっとせつない。

ブルガリアン・ヴォイス

ブルガリアン・ヴォイスの来日コンサートに行ってきた。
会場はお台場のLOVE GENERATION。オリジナル・ブルガリアン・ヴォイスのソリストを中心に、男性ソリスト(1名)とガドゥルガ奏者を加えた総勢13名の編成だった。
ブルガリアン・ヴォイスが話題になり、私たちの間でもCDを回しあって聞いたのは、もう十数年前のこと。私が大学2〜3年生の頃だった。ブルガリアン・ヴォイスの登場は、その頃のひとつの事件と言える程、その神秘的な歌声と音楽性は大きなインパクトをもっていた。

今でこそいろんな国の民族音楽が手軽に聞けるようになったけれど、あの当時は世程その方面の知識がない限り良質な音源に接するのは難しい状況だった。東欧の音楽のことなんて、身近で話題にする人もいなかった。せいぜい「エスニックブーム」と呼ばれた軽薄な流行感覚で、アジアやアフリカの陽気なリズムを取り入れた音楽がつかの間人の注目を浴びる程度だった。それがブルガリアン・ヴォイスの登場により、私たちを囲む音楽状況がずいぶん変わったと思う。ワールド・ミュージックという呼称が一般的になり、今ではCDショップに行けばささやかながらもその類いのものを置くコーナーがある。その影響は計り知れない。

そんな当時のことを思い起こしながらの今日のライブ。彼女達の驚異的な歌声の力は健在で、やはり素晴らしいものだった。CDで聞き慣れた曲を、目の前にいる生身の人間が肉声で発している光景に少し戸惑う気さえした。ただ当時のような新鮮な驚きはなく、何というか、心地よいものに触れていられる安心感という印象だった。思い出のある懐かしい土地に帰ってきたような心地だった。

レストラン&ライブステージという会場だったので、とてもくつろいだ気分でライブを楽しめた。過ぎてしまうのがもったいないような夜…。

ルソーのことば

私の枕元にはいつも何冊かの本を置いている。その一冊がルソーの『エミール』中巻。この本には有名な「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が収めれれている。私は何か悩んだりした時も人に相談したりはしない。人に寄り掛かったりするのが嫌いだし、できるだけ自分の頭の中で物事を解決するようにしている。でもそれでも道に迷ったり、わからなくなったりした時、私はいつもルソーの言葉に自分を照らしてみることにしている。ルソーのことばは、攻撃的で激しくて、矛盾に満ちていて、そして美しい…。哲学と言うよりひとつの芸術だと思う。
 
以下、私の好きなルソーの言葉の引用……
 
「私たちは、美しいものへの愛をなくしてしまったら、人生のあらゆる魅力をなくしてしまう。狭い心のなかで、いやしい情念のためにそういう甘美な感情をしめつけられてしまった者、ひたすら自分以外のものには愛を感じなくなってしまう者は、もう感激をおぼえることもなく、凍りついた彼の心は歓びにふるえることもない。快い感動に目をうるませることもない。彼はもう何も楽しむことができない。こういうみじめな人間は、もう何も感じず、生きているとも言えない。彼はもう死んでいるのだ。」
 
「彼らが嘆いている弱さは、自分でつくり出していることを、彼らの最初の堕落は自分の意志から生じていることを、たえず誘惑に負けることを願っているからこそ、やがて心ならずも誘惑に負け、それを抵抗できないものにしていることを、そういうことがどうして彼らにはわからないのだろう。」
 
「私は、人間の自由が自分のしたいことにあるなどとは一度も思ったことがない。それはしたくないことを決してしないことにある。」
 
「未開人はいつも自分自身のなかで生きているのに、社会人はいつも自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きることができない。いわば他人の判断から、自分自身の存在感情を得ているのである。」
 
「おそらくあなたの味方になるものは一人もいまい。しかしあなたは人々の証言を求めなくてもすむようにしてくれる証言を、あなた自身のうちに持つことになる。人々があなたを愛してくれようと憎もうと、あなたの書いたものを読もうと軽蔑しようと、それはどうでもいいことだ。本当のことを言い、良いことをするのだ。人間にとって大切なことは、この地上における自分の義務を果たすことだ。そして人は自分を忘れている時にこそ、自分のために働いているのだ。」

ムジカーシュ

御台場までライブに行ってきた。ハンガリーのトラッド・フォークの代表格である「ムジカーシュ」が来日していて、幸運にもその貴重なステージに立ち会うことができた。なんという幸せ。

ムジカーシュはハンガリーの民族音楽やマジャール人の民謡などを題材に、その卓越した演奏技術で作品に昇華し、世界を舞台に活躍を続けている。以前からCDでその音楽を聞いてはいたのだけれど、ライブの演奏は印象が全く違う程に素晴らしく、体が震えるほど感動した。
演奏の途中、男女一組のダンサーが出演し、ハンガリーの伝統的なダンスを披露してくれた。そのダンスがまた素晴らしく、その女性が来ている民俗衣装も美しく、その女性もまた美しく、途中からずっとうっとりみつめてしまった。ダンスの中で女性がクルクルと何度も回るのだけど、その度にしなやかな生地のスカートが優雅な曲線を描いて宙を舞う。その美しさとといったら、たとえようがない。あんな美しい曲線は、どんな優れた詩人だって言葉にできないだろう。どんなに熟練した画家だって描ききれないだろう。どんな精巧なカメラだって再現できはしない。あの美しさは、あの瞬間にあの場面にこそ存在するものだ。人が回るというシンプルな行為が、あんなにも魅力的なパフォーマンスなのだと今まで気づかなかった。身体が放つ美しさを表現するダンスの魅力を、あらためて感じさせてくれた。

私の内で、ハンガリーという国への憧れが、ますます強くなっていく。

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