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Writings

ロウソクに火を

急に、無性にドストエフスキーをまた読みたくなって、出先の本屋で、まだ読んでいなかった『白痴』を手にとった。ときどきこういう「心にズシンと響くもの」に接したくなる時がある。
とりあえず電車の中で100ページぐらい読み進めたけど、ドストエフスキーの文学の感触はやっぱり特別なものだと、あらためて感じる。作品世界にはまり込むうちに、ひどく気が滅入って落ち込むのだけど、それが却って心地良かったりもするのだ。心が弱っている時には、余計に心に染み渡る。しばらくはこの本を読む時間を楽しんでいよう。

この本ともう一冊、私の大好きなカール・セーガンの著作が目に止まったので、その本も一緒に買い置いた。
その本の序文に、こんな言葉があった。

「暗闇を呪うよりも、ロウソクに火をつける方がよい」(格言)

偶然手にした本に、こんな素敵な言葉をみつけて、私はいたく感激してしまった。あれこれ気を煩ったりしてるより、とにかく今自分ができることを、ひとつひとつしていくことが大事なんだと思う。何かしらほんの少し、世界を明るくさせるような「ちいさな仕事」を。

忘れもの

私はしょっちゅう忘れものをする。
昨日、お客さんの所に原稿を受け取りに行ったはずが、雑談してるうちに肝心な原稿を忘れて帰ってしまった。家に戻ってからお客さんから電話かかってきたのだけど、もう怒るというよりあきれて笑ってくれた。

私は子供の頃から忘れものが絶えなかった。通信簿の先生からのメッセージ欄は、いつも決まって「忘れものに注意すること」。教室の中で私は「忘れものの王様」と呼ばれていた。私が給食の集金袋とかを、たまに忘れずに持ってきたりすると、クラス中がどよめいたりしたものだった。
ずっとその性分は変わっていない。電車の網棚には書類を忘れる。食事するお店では手帳を忘れる。公衆電話を使えば、財布を忘れる。居酒屋で飲んでいれば眼鏡を忘れる。時計を忘れる。旅先では鞄を忘れる。上着を忘れる。帽子を忘れる。ちょっと病的なくらいに、あちこちにいろんなものを忘れてしまう。そのくせに、お客さんの電話番号をたくさんそらんじていたり、暗記ものは得意だったりもするのだけど。

昨日はお客さんが「横山さんって大物ですね」って笑ってくれたけど、この先いつもっと取り返しのつかない失敗もしでかすやらわからない。でもこれは私の持って生まれた性分なんだから、もうどうしようもない。私の周りの人たちには、「しょうがない」と思って、寛容につきあってもらえたらとお願いするばかりだ。
私が何かとても大事なことを忘れているとしても、そういうわけで、悪気はないのですよ。本当に。

仕事の合間のひとりごと

毎日毎日、仕事ばかりしている。
どうしてこんなに仕事ばかりしているのか
自分でもときどきわからなくなってくる。

仕事は嫌いではない。今の仕事を、私はむしろ楽しんでいる。
忙しい時には寝食を忘れて没頭する。
「飲み食いするために、仕事してるわけじゃない。
 いい仕事をするために、飲み食いもするのだ。」
---と、自分を言い聞かせたりしながら。

でも「いい仕事」ってなんだろう?
自分が良かれと思ってしたことが、
別の誰かにとっては、悪い局面を招いてるのかもしれない。
本当は仕事に良いも悪いもないわけで、
結局は、自分のひとりよがりな
楽しみに過ぎないのかもしれない。

自分なりの趣味やライフスタイルを、めいっぱい楽しむのも、
社会の中で一定の役割を担って、その仕事に没頭するのも、
どっちが正しいことでも、偉いことでもないと思う。
人それぞれに方法や手段が違うだけで、
求めているものは同じなんじゃないだろうか。

自分の居場所を築いていくこと。
自分で自分を確かめていくこと。
---その手続きなんだと思う。

そういう面倒な作業を続けていかなければ、
私たちは毎日不安でしょうがないのだ。
そういう不安を抱えていない人なんていないと思う。
それが感じられないとしたら、
その人が何かに夢中になって自分を忘れている時か、
その人の魂が怠けている時か、
そのどちらかなんじゃないだろうか。

そんな不安を乗り越えていける確かな方法、その先のゴールは、
きっとどこにもない。
今自分の目の前にあるボールをできるだけ遠くまで投げてみて、
そこまで歩いていってボールを拾い、またその先へ投げてみる。
その繰り返しを続けていくしかないのだろう。

時折誰かが、そのボールを投げ返してくれることを期待して。

幸せのお手伝い

なんだかわからないのだけど、ウエディング絡みの仕事が続く。今は3件もその手の仕事を抱えている。そのひとつは、ブライダルリングのリーフレット。文章も私が整えないといけないのだけど、私にはエンゲージリングとマリッジリングの違いすらよく知らなかった。ネットでその手のお店を検索して、広告文を読んでるうちにやっとなんとなく区別がわかってきた。でもエンゲージリングって結婚した後はどこに行ってしまうの?どうもよくわからない。

「ふたりの誓いを永遠に輝かせる」とか「ふたりの真実の愛には、たったひとつの」とか、そんな文章を部屋にこもって一人で考えてると、なんだか体中がむずむずする。きれいなものを作るのは楽しい作業だけど、どうもこの手の言葉を扱うのは苦手だな。こういう仕事が続いて、こういう方面で実績をつくったりしたら、この手の仕事ばかりが続いてしまうんじゃなかろうか・・・・などと余計な心配をしてしまう。

こうやって人の幸せを演出するための仕事をしてるんだから、私も人の幸せにあやかれないものだろうか。あやかれたらいいなぁ。なんて、ふと思ったりする日曜日の午後。

私は何屋さん?

ひさしぶりに母から電話があった。「最近調子はどうなの?」といつもの他愛もない話をした後で、ふと母が、「ところであんたの仕事って何屋さんなの?人に聞かれた時に何て答えたらいいのかわからないんだけど」と言われてしまった。---そんなことあらたまって聞かれても困る。自分がいったい何屋さんなのか、私だって時々わからなくなっているんだから。

何の仕事をしているんですか?と人に聞かれたら、面倒なのでとりあえず「ただの印刷屋です」と答えることにしている。それ以上を言葉で説明して仕方ないから、とにかく一緒に仕事をさせてもらう中で、自分の持ち味をわかってもらうようにしている。あくまで印刷屋としての裁量に徹するのか、デザイン・制作の仕事にまで踏み込むのか、その仕事の内容次第だ。お客さんのタイプによって、自分の得意分野を使い分けたりもする。なんでもやるから人から便利がられる時もあれば、いったいお前の専門はなんなんだ?と不審がられる時だってある。専門を打ち出さずに仕事をしていくのは、なにかと面倒だし大変だ。でもこうして仕事を続けていられるんだから、自分のやり方も案外悪いものではなかったと、近頃は思えるようになってきた。

気負うつもりはないけれど、私は新しい分野の仕事をしているんだと思う。仕事のひとつひとつの内容は、特別なことじゃないし、何も新しいことはしていない。ただ印刷屋とのしての仕事の範囲の捕らえ方、その踏み込み方が、従来の常識的な判断とは少しだけ違うんだと思う。これからの時代、デザインと印刷の領域に明確な線を引くことなんてあまり意味を持たなくなるだろうし、なんでも一人でこなせる技能がますます大事になってくる。自分の専門を特定しないことが、逆に自分の価値を高たりもする時代が来るのだと---そんな根拠のない見当をつけてこの仕事を始めたけれど、この先いったいどうなることやら。
とにかくも、スタジオジャム・サンドの立ち上げから一年が過ぎた。このままがんばれる限り、走り続けていきたい。

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