Top Design Illustration Writings Blog Photo Profile Contact

Writings

本当に美しい活版印刷の展覧会

「嘉瑞工房-高岡昌生 活版印刷展」という展覧会に行ってきました。この展覧会のことは、友人のイラストレーター・吉田稔美さんに教えていただきました。早く行こう行こうと思いつつ、気がついたら会期は明日まで。なんとしても観たい展覧会だったので、夕方一人で行ってきました。

展覧会場は、お茶の水の「美篶堂」さん。ギャラリーと、様々な素敵なステーショナリー小物、書籍等を扱ったShopを併設しています。このお店のことは前から気になっていたので、この機会にやっと足を運ぶことができました。少しドキドキしながらギャラリーの扉を開くと、額縁の中にかしこまった美しい活字たちが私を迎えてくれました。
美しいです。それ以上の言葉がありません。風合いのある紙の上に、完璧なプロポーションの文字がしっかりと刻まれ、平面の上にかすかな凹凸が陰影を作り、画面全体が見事な存在感を放っていました。完璧に美しい調和の世界です。見れば見るほど、ぞくっとするくらいに美しい活字印刷。

 
(写真はギャラリーの方に断って撮影させていただいてます)

この素晴らしい印刷の仕事をしたのは、嘉瑞工房・高岡昌生さんという方です。なんとこの度、The Royal Society of Arts (英国王立芸術協会) Fellowに選ばれたのだそうで、今回の展覧会はその記念に制作されたThomas Campbell「HALLOWED GROUND」のお披露目だったのです。
こんなにも美しい活版印刷は滅多に出会えるものではありません。欧文活字の本家、活版に歴史の深いヨーロッパでも、ここまで質の高い印刷を刷れる工房・職人は、今日では希少だと思います。だからこそ英国王立芸術協会で Fellowの称号を得たのでしょう。こういう方が同時代の日本にいてくださることが、なんともうれしくてたまりません。そしてこのような完璧な仕事を前にすると、自分ももっとしっかりと自分の仕事に向き合わなかればって、反省させられるのでした。


美しい活字で刷られた印刷物は、それだけで芸術としての価値があると思います。長い伝統に裏打ちされた「調和」の世界がそこにあります。ただ、私も印刷屋の端くれとして一言添えておくと、活字の印刷が必ずしも美しいわけではありません。「昔の印刷物は良かったのに最近のはみんなダメだ」「本はすべて活字であるのが正しい」って勘違いをしてる人に、たまに出会うことがあって悲しくなるときがあります。そういう乱暴な物言いは、かえって、活版の価値をおとしめてるのではないでしょうか。
私は活版印刷がまだあちこちで現役で使われてた時代をギリギリ知っていますが、実際には粗悪な印刷物もたくさんありました。活版だから美しいのではなく、美しいプロポーションの書体があって、それを完璧な形で彫刻できる鋳造所があって、それらの活字を選定できるセンスの良いデザイナーがいて、手入れの行き届いた印刷機があって、そして熟練した腕の良い職人がいて、それらの条件がうまく整った時にはじめて、本当に美しい活版印刷ができあがるのです。職人と名のつく人が、いつでも良い仕事をするわけではないのです。その見極めは重要です。


本当に良いものと、平凡なものとを見分けていく「目」が大事なんだと思います。そして本当に優れたものには、ちゃんとそれに見合った対価を払っていくという意識を、一人一人がしっかり持ち直すことこそが、これからの時代に問われるのではないでしょうか。なにでもかんでもコストとスピードばかりが優先させるような社会では、伝統に支えられた「良い技術」も、美しいものを生み出す「こころ」のありかも見失ってしまいます。

■美篶堂のHP http://www.misuzudo-b.com/
■嘉瑞工房のHP http://www.kazuipress.com/

「千夜千冊」という冒険

松岡正剛の講演会に行ってきました。
今回の講演会は、松岡正剛が2000年から6年間かけてWeb上で連載執筆した「千夜千冊」を、本として新たに集成した「松岡正剛 千夜千冊 全7巻」の出版記念の特別講演でした。ですので、話のほとんどはこの全集についての解説に沿った話。それでも歴史、宗教、哲学、自然科学、文学、美術、漫画、音楽・・・etc、とあらゆる分野に通じた「千夜千冊」という「知」への冒険の断片を、ほんの少し垣間見させてもらえて、もうこの上なく幸せなひとときでした。

この全集、10万円近くするのですが、講演会聞き終わった直後は欲しくて欲しくてたまらなくなってしまいました。予約申込書にサインする直前で、踏みとどまりましたが。20代の時に、約50万円の夢二復刻本全集を店頭で衝動買いした私ですが、さすがに少しは大人になった(?)ので・・・。でも欲しい。思いがけない収入があったら、そのうち買ってしまうかも。
http://www.kyuryudo.co.jp/Senya-Sensatsu/flame.htm


講演会を聴いて、いろいろ考えさせられたこと、これから考えてみたい宿題を、たくさんもらってきたのですが、私の足りない頭でここに論を展開してもつまらないので、印象に残った話を少しだけ。
「千夜千冊」という執筆活動は6年間にわたって続けられたわけですが、その道程は、松岡正剛さん自身が当初考えていた以上に大変な、壮絶な毎日だったようです。普通の人が何年もかけて読み解いていくような、内容の濃い、重みのある本に、毎日必ず1冊づつ向き合い、格闘し、執筆を続けていったのですから、それはもう私たちの想像を遥かに超えた行為だったのだと思います。

でもそんな過酷な作業の一方で、新たな発見や楽しいこともたくさんあったのだそうです。今回読み直しをする中で、その本に対する自分の認識や捉え方がまったく別のものになることが度々あったそうです。年齢や経験を重ねているわけだから、違って当然なのですが、自分が当初想像していた以上に感じ方に違いがあって驚いたそうです。それから本を読むときにどういうシチュエーションであるのかで、つまり、朝読むのか夜読むのかという時間によっても、仕事場で読むのか喫茶店で読むのかという場所によっても、自分の体調の良い悪いによっても、些細な話、本にカバーをかけて読むのかない状態で読むのかによっても、その本の印象がかなり違ってくるのだそうです。本好きな人なら誰でも、なんとなくうなずける話ではあるのですが、あれだけ本に精通してきた正剛さんが気持ちを込めてそう語るのだから、とても興味深い話した。そして正剛さんが語ってました。「本というものは、二度以上読まないとダメなんだと、私自身があらためてそう思った」と。

 
そして、とてもうれしかったこと! 正剛さんは本を読む時にペンでマーキングをしながら読むのだそうですが、そのペンは「PILOTのVコーンというボールペン、それも青インクじゃないと調子が出ないんです(笑)」とおっしゃってたのですが、私がそのときメモをとってたペンが「PILOTのVコーン、青インク」なのでした。私もずっと愛用してるペン。書く道具って、高級だから良いというものではなくって、その人にとっての「ツボ」のようなものがあるのです。喩えが難しいのですが、背中のかゆいところに必ず手が届く「魔法の孫の手」みたいなものでしょうか(なんと貧相なイメージ…)。とにかく、そんなところに正剛さんとの共通点が見つけられて、私はうれしくってたまりませんでした。思わず立ち上がって「正剛さん、私もです!」と叫びたかったほど。

本当に、私にとってはたくさんの元気をもらえた、心が生き返るような一日でした。正剛さんのような人でさえ、今も毎日、命をかけて書物と格闘している。果てのない「知」への冒険の道を、全力で走り続けている。そのことが心に深く響きました。私も何かやらなければ・・・。たくさんのことはできなくても、たった一つのことでもいいから、自分はこの井戸を掘ったのだと、誇れるような仕事がしたい。帰りの電車の中で、ぼんやりとそんなことを思いました。

恋いこがれる〜ルネサンス・バロック音楽の調べ

友人に案内いただいて、一昨日コンサートに行ってきました。
「恋いこがれる。」
〜ルネサンス・バロック音楽で綴る イタリアの愛 フランスの雅 スペインの舞〜
リュート奏者・井上周子とテノール歌手・長尾譲によるコンサート。

10299457_102.jpg400〜500年前のヨーロッパの音色に酔いしれました。私はリュートの生演奏を間近で見るのがはじめてで、もうそれだけで興奮。井上さんの情感のこもった、それでいて抑制の利いたリュートの美しい音色にうっとりしましたし、長尾譲さんのテノールの声質も素晴らしかったです。プロフィールを見ると、どちらかというとバロックの唱法の方が専門なのかと思うのですが、私は前半の中世風な曲の、少しこもった声の感じ(?)の唱い方がとても魅力的に聞こえました。

演奏の曲目は2部構成になっていて、前半は15世紀末から16世紀にかけてのルネサンス期の音楽、後半は16世紀〜17世紀のバロック音楽となっていました。中世の舞曲風なかわいらしい曲から、オペラの原型を感じさせる高揚感に満ちた曲まであって、とても工夫されたセンスの良い選曲でした。時代や国によって曲の表情は様々で、演奏の仕方や歌唱の方法にも明らかな違いがあって、その変遷を垣間みられてとても楽しかったです。

私は音楽を系統立って聞いてないので、漠然と「古楽っぽいものが好き」と思ってるだけなのですが、今回のコンサートでルネサンス〜バロックの曲をいろいろ聞いてみて、自分が特に好きに思うのはどうやら中世〜ルネサンス期の時代に当たるのだなって確認することが出来ました。自分が良いと思う音楽の基準は「想像力をかきたてるかどうか」という、その1点に尽きます。ですので、時代区分もジャンル分けも本来はあまり意味のないことです。ただ、私にとってはクラシックと呼ばれるものにどうしても興味が湧かなくて、古楽と呼ばれてるものには不思議な魅力を感じてしまって、その理由や境界線がどこにあるのかを知りたいと、ずっと思っていたのです。それが自分なりにちょっと理解できてうれしかったです。

古楽を聞いていると、どこか別の世界に自分を連れて行ってくれるような、不思議な感覚を呼び起こされます。その浮遊感、高揚感は、60年代サイケロックやアシッドフォークの“トリップ感”に通じるものを感じます。個人の内面的な行為と音楽との結びつきがとても強いように思うのです。一方で18世紀以降のクラシックを中心とした西洋音楽は、ステージ上の演奏者と観客との間に距離があるのが前提なようで、音楽は「鑑賞される」ものとして高い棚の上に置かれてしまった印象です。もちろんどちらが良い悪いの話ではなくて。その時代毎に、音楽が担う役割が変化していったのでしょう。そうした流れの継承と反発の系譜で、現代の音楽を見渡してみると面白いですよね。

最近ずっと忙しくてくたびれてましたが、ひさしぶりに文化的(笑)なことに触れられて、心にたくさん栄養もらえました。会場となった、新宿オペラシティの近江楽堂はこじんまりとした空間ですが、音の響きが良くて、今回の演奏にすごく合ってました。観客の皆さんはかなり聞き込んでる感じの方が多くって、著名なプロの演奏家の方もいらっしゃったようです。私なんか場違いでは?と、ちょっと恐縮してしまいましたよ。でも本当に素晴らしいコンサートだったのでもっといろんな人に、特に若い年代の方に、もっと聞いて欲しいなぁって思ったりもしました。

古楽がこれからもっと人気出るといいのですが。古楽が大ブレークして、CDショップでは古楽のスペースがヒップポップをしのぎ、ライブハウスでは古楽ユニットの演奏が大人気で会場はいつも超満員、電車で隣の人のipodから漏れ聞こえる音色は古楽ばかり! なんていう時代は・・・来るわけないか(笑)。せめてもうちょっと、古楽を身近に聞ける環境に、なってくれるといいですよね。

写真は近江楽堂の天井。演奏中に写真撮るわけにいかなかったので。

文楽を観てきました!

「文楽」を鑑賞してきました。私にとっては、はじめての体験でしたし、文楽についての見識は何も持っていないのですが・・・とにかく面白かったです!

今回私が観たのは「天網島時雨炬燵」という演目。愛し合う男女が様々な世事上や人間関係に翻弄されながら、義理を立て、道理を通そうとするうちに、結局は心中へ至ってしまう悲劇の物語です。観始めのうちはどうも調子がつかめず、義太夫節の台詞も聞き取りにくくて、舞台の袖に表示される字幕(?)についつい目が行ってしまって、作品世界になかなか入っていけませんでした。でもしばらく観てるうちに独特な語りの調子も耳に馴染んで来て、繊細で優雅な人形の動きにすっかり見入ってしまうのでした。ストーリーの細かいところとかはわからないままのところも多かったですが、そんなことは文楽の世界を鑑賞するのにさほど大事なことではないようです。ニ転三転していくストーリー展開の面白さ、激しい情念のこもった言葉の力強さに、ただただ魅了され、圧倒されっぱなしでした。

この「天網島時雨の炬燵」は、女同士の「義理」の悲劇を描いた作品ということで、人形の操り方に派手な動きは少なくて、それよりも何気ない身のこなしや、感情の機微を巧みに表現した細やかな演技に見所がある印象でした。登場人物達の台詞の掛け合いが、三味線の音色・リズムと一体となって、次第にドラマとしての高まりを見せていく演出も見事でした。観終わってしばらく経った今も、台詞の心地よい感触が頭を離れません。「あんた、そりゃあんまり情ないわいな」「それで道理は立つかいの」ってな感じの、「〜わいな」「〜かいの」という丸みのある言葉の感触が、もうすっかり気に入ってしまいました。あらためて感じた、美しい日本語の世界。そして濃厚な情のこもった世界。こういうものって、忘れちゃいけないですね。

で、実は今回一緒に観に行った友人の一人が、演者に知り合いがいるということで、なんと幕間の時間に楽屋へ遊びに行かせていただいたのです。短い時間でしたが、人形を間近で見せていただいて、舞台裏も覗かせていただいて、もう、大興奮で感激しまくりでした(笑)。興奮し過ぎであまりちゃんと撮れなかったのですが、その時撮影させていただいた写真をいくつかアップしてみます。

 

美しい人形達をこんなに間近で見ることができました。実際に目の前で動かし方を教えていただいたり。貴重なお話をたくさん聞かせていただきました〜。

これは“舞台下駄”。一体の人形に三人の遣い手がつくのですが、手足でそれぞれ違う位置から操作をするために、このような高さを調整する下駄を履くのだそうです。役者さん達一人一人が自分の下駄を持っていて、舞台と役に合わせて選んで履くのだそうです。さすがにすごく使い込んであって、いい味を醸し出してます。これを間近で見れたのも感動ものでした。
文楽、本当に面白かったです。またぜひ観に行きたいです。

 

ノーム・チョムスキー

仕事の用件で渋谷に出たのだけど、お客さんの都合で急にぽっかり空いてしまった。仕方ないので何気なく本屋に寄ってみた。何も買いたいものはなかったのだけど、本への誘惑にどうしても勝てず、またあれこれと予定外な買物をしてしまった。前から気になっていた、チョムスキーの著作を2冊。『ノーム・チョムスキー』と『チョムスキー、世界を語る』。それから池澤夏樹の『イラクの小さな橋を渡って』という本も気になったので買っておいた。
多くの人にとってそうだと思うのだけど、今世界で起きていることがどうしても私にはどうしても理解できない。過去の歴史の中で幾度もその間違いに気づきながら、何故今日にいたっても繰り返し戦争状況をつくり出してしまうのか...。その問いに一番ちゃんとした案内を与えてくれるのが、チョムスキーなんだと思っていた。
家に戻ってすぐにその一冊を読み終えたのだけど、明解な言葉で、辛らつに、私たち自身が参加してきた「テロ行為」について言及されていて、強いショックを受けた。だんだん背筋が寒くなって、泣きたい気分になってくる。何かしら急に世界が変わったわけじゃない。ずっと以前から、こうなるべき方向に向かって皆で突き進んでしまったんだと思う。私たち自身が、皆で知らないふりをして。

本当に美しいもの、大事なものは、私たちのすぐ身近にありながら、たいていの場面で私たちはそこから距離を置いてしまっている。本当に忌むべきもの、危険なものは、私たちとは疎遠であるように感じながら、実はそのまっただ中にいるのだ。せめてそのことをもう少し自覚していたい。


『ノーム・チョムスキー』(発行/リトル・モア)は、1〜2時間もあれば読んでしまえる本です。機会があったらぜひ手に取ってみてください。今日に生きる私たちにとって、最低限知っておかないといけないことが語られている本だと思います。

前の5件 1  2  3  4