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けやきの話(その1)

武蔵野市の閑静な住宅街のまん中に、「けやき」と呼ばれる不思議な「場」があります。シックなレンガの外壁がやわらかな存在感を放つ建物で、敷地は季節折々の木々や花が彩る公園に囲まれています。「けやき」には毎日たくさんの人が訪れます。子供をつれたお母さん、読書しに来るお父さん、受験勉強に勤しむ予備校生や、あちこち走り回る子どもたち。ここには人の行き来が途絶えることはありません。皆の憩いの場として、まちづくりの拠点として、この「けやき」はたくさんの人たちに愛されているのです。

「けやきコミュニティセンター」は、武蔵野市のコミュニティ構想に基づき、1989年12月、武蔵野市吉祥寺北町5丁目に建設されました。いわゆる「公民館」が地方自治体によって設置・運営されるのに対し、「コミュニティセンター」は市民自身よって施設の管理・運営、行事の企画などを行う点に大きな違いと特色があります。

1971年に策定された武蔵野市の「コミュニティセンター条例」には、「コミュニティセンターは市民が新しいふるさと武蔵野市の豊かな町づくりをすすめるための基本的な施設」と明記され、自主参加、自主計画、自主運営を基本原則に、市民自身による市民のための施設として位置付けられました。
しかし計画当初は、理想としての「コミュニティ構想」とは程遠く、形ばかりの施設が順次建設・開館されていく実情にありました。当時は「コミュニティ」という言葉の概念も「市民自治」への理解もまだ日が浅かったのでしょう。行政側が考える公共サービスや施設のあり方と地域住民が求めるものとに隔たりが大きく、行政側と住民側とがぶつかりあう場面もありました。そのような状況にあって、「コミュニティ構想」をはじめて体現するかのように草の根的に活動していた「けやきコミュニティ協議会」が計画立案したセンターの建設は、準備会の設立から完成までに7年半もの歳月を要したのです。「建設計画の凍結」を市長が提示する深刻な局面もありましたが、現場レベルで時間をかけて協議を重ねることで次第に互いの信頼関係が築かれ、結果的に前例のない理想的な施設が出来上がりました。
 
地域にしっかりと根付き、まちづくりの拠点となっている「けやき」の存在は高い評価を得ています。その評判を聞き付け、遠方からの見学者も後を絶ちません。しかしそこへ至る道程の背景には、協議会設立〜建物づくりに関わった大勢の人たちの、言葉では言い尽くせない苦労、たくさんのドラマが秘められているのです。「コミュニティ構想」は、武蔵野市の肝入りの政策なのですが、実際にそれが地に足のついた形になるまでには、主体的に動いた地域住民たちの地道な努力が不可欠でした。
 
私がこの「けやき」の活動に関わるようになったのは、ちょうどセンター建設に向けての計画が具体的に動き出した時期、1987年のこと。私は成蹊大学に在籍する大学生でした。ある日、大学の先生から「地域のお祭りで餅つきをするから手伝いにこないか?」と、声をかけられました。――きっかけは、たったそれだけのことでした。東京でのひとり暮しを始めてようやく一年たった頃合いでした。当日、言われるままに会場の公園に顔を出してみると、朝早くからたくさんの人が忙しそうに走り回っていました。「この人、餅つき係だから!」と紹介されると、要領を得ないうちから準備作業に駆り出されます。開場すると途端に大勢の来場者でごったがえし、皆が一生懸命自分の役割に取り組くんでお祭りを盛り上げ、閉幕後の片付けが一段落した頃にはもう夕闇が迫っていました。私は一日中餅つきで汗を流し、くたびれきっていたのですが、爽やかな充実感がありました。
打ち上げの席であらためて周囲を伺うと、そこには自分の両親と同じぐらいの歳のおじさん、おばさん達ばかり。知り合いがいるわけでもありませんから恐縮して座っていると、周りの人達があたたかな笑顔であれこれ声をかけてくれます。そんな中で、この地域のコミュニティセンター建設の計画について語ってくれる人がいました。その語り口に、何か特別に惹かれるものがあったのでしょう。何か自分にもできることがあるのなら――と、そんな軽い気持ちからお手伝いをする約束をしてしまったのです。その約一ヵ月後には、なぜか「運営委員」という肩書きが添えられてたのですが...。
 
そして私と「けやき」との長いつきあいが始まりました。「けやき」での私の主な仕事は、地域に配付される「ニュース」をつくること。特定エリアの全戸配布、年齢や職業など不特定の人達が対象でしたので、様々な人の立場を尊重することを何より大事にしましたし、言葉の選び方やレイアウトにも細かな配慮が必要でした。いつもいつも締め切りに追われ、悪戦苦闘する毎日。何日も徹夜が続くこともありました。学校の単位を落とし、友人達からあきれられ、彼女とも疎遠になり、「いったい何をやってるのか」と親に怒鳴られたこともありました。それでも私は自分に与えられた課題への取り組みに必死でした。センター建設に向けての行政側との折衝の場は毎度のように紛糾し、毎日が戦いのような日々でした。



「どうしてそんなに一生懸命になれるのか」と、周囲の人達に何度も聞かれました。正直な話、この活動に関わり始めた当初、私自身に「地域」「コミュニティ」という考えは希薄でした。市民運動やボランティアと呼ばれるものに関心があったわけでもありません。ところが、活動を続けていく中で、「けやき」の提唱するコミュニティセンターを実現させることが切実に大事なことだと思えるようになりました。そして「けやき」のような市民活動のあり方――簡潔に言えば、自主精神と民主的な手続きに基づく地域自治への市民参画――が、とても珍しいケースだと理解するようにもなりました。年齢も社会的な立場も主義信条も違う人たちが、共通の夢を実現していくために議論を重ねて合意をつくり出しいく場面は、本当に素晴らしい光景でした。毎日ワクワクすることの連続でした。私は何より、そのことを楽しんでいたのだと思います。
私はこの活動を通じて、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれました。その人達から、私はたくさんのものを受け取ってきましたし、その受け取ったものに対して、恩や義理としてではなく、「人」としての当たり前の心情として、自分にできることを返していきたかったのです。
 
「けやき」の核にあるのは、「人」の素晴らしさなのだと思います。この地域が私たちにとってかけがえのないものだから、人との関わりがあたたかいから、そして何より人を生き生きと輝かせてくれるから、皆がこの「けやき」を愛するに違いないのです。