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「夜明けの門」をくぐるとその先は、世界遺産・ヴィリニュス旧市街。それまでの生活感漂う街並とは急に景色が変わります。

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ヴィリニュスの旧市街は、タリンのような中世の時代そのままを感じさせる街並ではなく、リガのような古き良きドイツの面影を感じる街並とも違い、カウナスの美しいゴシック建築が残る美しい街並にも及ばず、あまり特徴がなくのんびりとした素朴な古都という印象。

ヴィリニュスの街の歴史は13世紀まで遡ります。リトアニア大公国の王ミンダウカスがここに居城を築いたことから、リトアニアの政治的、軍事的な拠点として機能することになります。しかし、16世紀にポーランドとの連合国が形成されると、次第にポーランドに吸収される形となり、ヴィリニュスはポーランドの一地方都市に過ぎない存在になってしまいます。その後は悲劇極まるポーランド分割を経て、長くロシアの支配下に置かれる時代が続くのです。そのような複雑な歴史の変遷が、ヴィリニュスの街並に深く影響しているのでしょう。

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夜明けの門を入ってすぐのところにある「聖三位一体教会」の門と、「聖カジミエル教会」。ヴィリニュス旧市街には、大小様々な建築様式の教会があります。ひとつひとつ見ていたらキリがないほど、たくさんの教会がありました。

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向こう側に見えるのは「聖ヨハネ教会」。ヴィリニュス大学の中にある教会。リトアニアがキリスト教を受け入れた直後の14世紀後半に建造されたもの。

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旧市街の中心部を南北に走るピリエス通り。旧市街の南側エリアは車の乗り入れもあってあまり風情がないのですが、このピリエス通りのある北側のエリアには、古都らしい美しい街並が広がっています。

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横道に入ると土塀が続く趣き深い裏路地があって、ぶらぶらと当てもなく歩いていくと、角を曲がる度に様々な表情を見せてくれて楽しいです。

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ピリエス通りを更に北に進んでいくと、大聖堂があるカテドゥロス広場へと通じます。

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ヴィリニュスの街の中心となる、カトリックの大聖堂と鐘楼。 国家建設以前の多神教の時代には雷神ペルクーナスの神殿があったと考えられています。13世紀、リトアニア大公ミンダウカスがキリスト教を受け入れたとき、最初の教会がここに建てたのそうです。その後は破壊と再建が繰り返された末、18世紀には大規模な増改築が施されました。戦後にもかなりの部分が改修されたのでしょう。歴史の深さを感じさせる外観ではないのですが、その佇まいは壮観。

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鐘楼のすぐ近くに、人がひっきりなく集まる場所があります。そこには「Stebuklas(奇跡)」と書かれた1枚の敷石が。。。1989年8月23日、ソ連からの独立を求めるバルト三国共同のデモ活動が行われました。およそ200万人もの参加者が手をつなぎ、3カ国を結ぶ600km以上の「人間の鎖」を形成したのですが、そのときの起点となったのがこの場所なのです。私たちがエストニア、ラトビア、リトアニアと旅をしてきた道は、「人間の鎖」がつながった道と重なっていました。あの頃、TVの映像で見ただけの「人間の鎖」が、こんなにも途方もない距離だったことを直に体験して、あらためて感嘆と感動が湧き上がってきたのでした。。

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大聖堂の裏手にはこんもりと盛り上がった丘があって、その頂きにあるのが「ゲディミナス城」。ヴィリニュスとリトアニアのシンボル的な存在となっています。大きな城だったそうですが、現在は塔の部分しか残っていません。丘の上までは、徒歩またはリフトで登ることができて、塔の上から見渡す景色は絶景なのだそうです。

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残念ながら、この日は丘へ登るゲートが閉じられてました。。がっくりしてたら、愛想のいい白黒猫がなぐさめてくれました。。(^-^)

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この通りの向こうには、様々な文化施設や商業ビルが建ち並ぶ新市街が広がっています。〈続〉

カウナスのチュルリョーニス美術館に行ったことが、私にとっては旅のクライマックスでもあったのですが、旅はまだ続きます。次の目的地は、リトアニアの首都ヴィリニュス。

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ちなみにカウナスで泊まったホテルは、バスターミナルのすぐ近くにある「Magnus Hotel」。今回のバルト三国で旅で泊まった宿の中で、一番快適なホテルでした。二人で1泊6000円くらい。格別に安いわけではないのですが、部屋はとてもきれいでフロントのサービスもしっかりしてました。ビュッフェスタイルの朝食付きでこの値段なので、充分なコストパフォーマンス。またカウナスに行くことあったらここに泊まるでしょう。

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ヴィリニュスへは鉄道で行く計画だったのですが、駅に行ってみたら次の列車までかなり待たないといけない状況...。時間もったいないので、バスに切り替えました。ガイドブックには「1日11便以上が運行」とか書いてありますが、実際にはかなり間が空く時間帯もあるので、事前に調べておいた方がいいと思います。

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カウナス〜ヴィリニュス間を走るバスは、長距離移動用のバスではなく、地元の人も利用する普通の路線バス。バス停ごとに停車するので、2時間近くかかりました。計画通りには行かなかったのですが、とりあえず無事にヴィリニュスに到着。ヴィリニュス駅がひどくこじんまりとしていてびっくりでした。。

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駅に荷物を置いて、さっそく散策開始。ヴィリニュス駅は繁華街から離れた場所にあるので、その周辺はのんびりとした、生活感漂う空気が流れています。

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夜明けの門に向かって歩いていると、大きな市場に出会いました。ここは有名な「ハレス市場」。1906年に建造された煉瓦造りの建物で、ヴィリニュスで一番歴史の古い、一番規模の大きな市場なのだそうです。

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見た目より市場の奥行きは深く、この煉瓦造りの建物の向こう側にも売り場が続いています。とても美味しそうなベーコン、種類豊富な精肉、見るからに新鮮な野菜や果物、パン、お菓子、惣菜、そして衣料品等、買物心くすぐられる商品で賑わっていました。

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リガの巨大な中央市場とは比べ物になりませんが、こじんまりとした市場ながら、いろんな売り場をぶらぶら見学しながら買物するには、とても楽しい市場だと思います。

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宿から近かったのでその後も何度かここを通りましたが、夕方までほとんどの店が閉まってしまうので、朝に行った方が活気がありましたよ。

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途中で見かけた白黒猫。リトアニアでは猫たちによく出会いました。

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ここが旧市街の南端に位置する「夜明けの門」。かつてここには城壁が築かれ、9つの城門があったそうですが、現存しているのはこの門だけ。門の上部にはリトアニアの紋章が刻まれていました。2階の礼拝堂には、奇跡を起こすといわれる聖母のイコンが飾られています。〈続〉

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「杉原記念館」の他に、カウナスでお勧めしたい場所がもう一つあります。リトアニアの国民的画家であり優れた作曲家でもあるチュルリョーニスの美術館。私がカウナスへ行った一番の目的は、この「チュルリョーニス美術館」に行くことだったのです。

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今から20年以上前の1992年3月、セゾン美術館で「チュルリョーニス展」という展覧会が開催されました。まったく知らない名前の画家でしたが、親しい友人が「絶対好きになる絵だから」と強く勧められて会場に足を運んでみると・・・そこで出会ったチュルリョーニスの作品世界に、私はすっかり魅了されてしまったのです。うねるような有機的な曲線と、神秘的な輝きを放つやわらかな色彩。幻想的な物語性に満ちていて、それは素朴なお伽噺のようでもあり、気高い神話のようでもありました。私はもう夢中になって、長い時間かけて作品を観て過ごしました。そして、じっと絵の中の世界に浸っていると、何故かとても懐かしい感覚が込み上げてきたのです。

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チュルリョーニス「楽園」(1909年)/「天使のプレリュード」(1909年)

それから2〜3年後だったでしょうか。ジョナス・メカス監督の「リトアニアへの旅の追憶」という映画にも出会いました。断片的な映像と印象的な言葉が織り重なって、やがてひとつのタペストリーにように編み上がっていく美しい映像作品。その作品の中で、メカスの故郷であるリトアニアの村の風景を見たとき、チュルリョーニスの絵に出会った時の感覚が自分の内でしっくりと重なりました。

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ジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」(1972年)

チュルリョーニスの絵と、ジョナス・メカスの映画。・・・きっかけはそれだけ。でもその時から、自分にとってリトアニアという国が自分にとって特別な存在になったのです。こんなにも心惹かれるものが何なのか確かめてみたい。リトアニアのことをもっと知りたい。その大地に実際に立ってみたい・・・そんな想いがこの「バルト三国の旅」へとつながったのでした。。

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そして、ついに辿り着いた「チュルリョーニス美術館」。高まる胸を押さえつつ展示室へと進んで行くと・・・このチュルリョーニスの大きなパネルに出会って、思わず泣きそうになってしまいました。。。

チュルリョーニスが絵を描いたのは、わずか8年ほどの期間。残された作品はけっして多くはないのですが、再初期の作品から晩年の傑作まで、チュルリョーニスの作品を一同に会することができます。こんなにも充実した内容なのに入場料は200円程度。プラスいくらかの料金を払うと、館内を自由に撮影することができます。

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二度の大戦やソ連占領下の困難な時代を乗り越えて、これほどの数の作品が保管できたのは奇跡的なことだと思います。作品保護のため照明がかなり落としてあったのがちょっと残念でしたが・・・チュルリョーニスの作品は低質な紙や画材を用いられてることが多いため、作品の保全には細心な注意が必要なのです。

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チュルリョーニスの作品の一番の特徴は、その詩情豊かで物語性のある幻想的な世界。そして、木、山、鳥、太陽などの自然のモチーフが作品の重要なテーマになっています。その描き方は人間中心の西欧的・キリスト教的な捉え方とは根本的に異なるものを感じさせます。リトアニアの地に脈々と息づいているアニミズム的な世界観が根底にあるのではないでしょうか。だからこそ、私たち日本人にとってチュルリョーニスの作品は、とても親和性が高いのだと思います。

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私がとても気に入っている風景作品「レイガルダス谷」。チュルリョーニスが生まれ育ったドルスキニンカイ近郊の景色。この絵を見たとき、それが遠い記憶の中にある風景のように思えました。自分にとっての原風景であるかのような。リトアニア南部の町ドルスキニンカイは、いつか必ず行ってみたい場所。

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「ソナタ六番」と題された作品の一部。チュルリョーニスの多くの作品が、音楽から着想を得たものとなっています。チュルリョーニスの芸術家のとしてキャリアは、画家としてよりも音楽家としてスタートしました。作曲の分野でも類稀なる才能を発揮し、今日に至って高く評価される楽曲を数多く生み出しています。『リトアニアへの旅の追憶』のバックで流れていたピアノ曲は、チュルリョーニスが作曲したピアノ前奏曲をヴィタウタス・ランズベルギス氏(音楽家であり、チュルリョーニス研究の第一人者であり、リトアニアの元最高会議議長)が弾いたものでした。

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最晩年の大作、「王」。宇宙的な広がりを持った、崇高で神秘的な世界。孤高の幻視者であるチュルリョーニスまなざしには、その先にいったい何が見えていたのでしょう・・・

チュルリョーニスが精力的な創作活動を行った時期は、ロシア帝国からの統制がゆるみ、リトアニアの民族文化復興の動きが活発になり始めた時代でもありました。チュルリョーニスはその動きに大きな刺激を受け、やがて指導的存在となっていきます。「リトアニア芸術協会」の創設では中心的な役割を担い、若い芸術家たちに作品発表の場を創り出すことに奔走。また、各地に伝わる民謡や民芸を収集し紹介するなど、リトアニアの民族文化の復興運動に大きな寄与をしました。その時に湧き上がった潮流が、後にリトアニア独立への大きな原動力となったのです。チュルリョーニスが国民画家と呼ばれる理由は、彼の作品が極めてリトアニア的であり、そして彼の存在そのものが今日あるリトアニアの起点となっているからなのです。

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別の展示室には、これまでに海外で開催されたチュルリョーニス展のポスターが展示されていました。左から2番目のポスターが、東京で開催された時のもの。保存管理に特別な配慮を要するチュルリョーニスの作品は、国外に輸送しての展覧会は非常に難しいそうです。東京で大規模なチュルリョーニス展を開催できたのは、関係者の方々の大変な苦労があったのだと思います。そこに立ち会えたのは、本当に幸運な出来事でした。。

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地下の展示室には、彼のスケッチやドローイング、楽譜、書簡などの貴重な資料が展示されていました。チュルリョーニスの創作の全容を、幅広く考察することができます。

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チュルリョーニス美術館は、リトアニアの国立美術館。1921年に設立され、1944年から現在の名称となったそうです。チュルリョーニスの作品展示がメインになっていますが、リトアニアの民芸作品や企画展の展示室もあります。この周辺には、国立美術館の分館としてたくさんの博物館や美術館が集中しています。

その中で格別にユニークで見応えあったのが「悪魔博物館」。画家アンタナス・ジュムイジナヴィチュースの個人的なコレクションが元になってるそうですが、その後世界中から寄贈が集まって、とてもバラエティー豊かな悪魔像が揃っていました。怖いというより、創意工夫の詰まったユーモラスな悪魔たちが多かった印象。ちなみに悪魔博物館の地下に、魅力的なカフェ&レストランがありました。私は食事のタイミングが合わず入らなかったのですが、メニュー見たらいろんなバリエーションの「ツェペリナイ」があって、とても美味しそうでしたよ。

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ライスヴェス通りからチュルリョーニス美術館へと行く道の途中に、たくさんの十字架が立てられた敷地があるのですが、そこは「ヴィエニーベス広場」と呼ばれています。

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そこに並ぶ石像は、リトアニア独立のために犠牲になった英雄たちなのだそうです。ソ連占領時代は撤去されていましたが、再独立後に再びこの地に建造されました。中央にある記念碑は、戦地となった各地から集められた石で覆われています。文字が刻まれたモニュメントには、この日も鎮魂の火が灯されていました。〈続〉

先日、アンジェイ・ワイダ監督の最新作「ワレサ 連帯の男」を観てきました。東欧民主化への大きな潮流の先頭に立った、ポーランドの元大統領ワレサ。予測できない時代の流れに翻弄されながらも、彼は人を引きつける演説を行い、周りの人間を大勢巻き込んで、様々な偶然をも力に変えて、世界を動かすうねりを作って行く・・・。

ワイダは彼を英雄としてではなく、複雑な面を持った一個の人間としてユニークに描き出していました。情に厚く、ひたむきで正直な性格でありながら、気難しくて頑固で破天荒、屈強でエネルギッシュな人物像。そして、グダンスクの造船所に集まった人々の高揚した空気感の描写がとても印象的でした。治外法権のような空間の中で、労働者たちは自由を渇望し、理想に燃え、ここから世界を変えられるのではないかという期待がみなぎっていたのだと思う。

劇中に当時の記録映像を巧みに交錯させてリアリティを紡ぎ出す、ワイダの映画手法は見事。正直言えば、映画の魅力としては物足りないものもあったのだけれど・・・当時の空気感が生き生きと描かれていて、その点で感動的な映画でした。80年代末の東欧民主化への時代状況に関心ある方には、ぜひ観ていただきたい作品。

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★公式サイト→http://walesa-movie.com/

カウナスに行ったら、必ず行っておきたいのが「杉原記念館」。"日本のシンドラー"と称される杉原千畝のいた日本領事館が、記念館として保存されています。

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第2次大戦中、ナチス・ドイツに追われる避難民たちが、ビザの発行をもとめてここへ押し寄せました。彼らが生き残るための数少ない選択肢の一つが、シベリアを横断し日本経由で国外に逃れることだったのです。杉原千畝は彼らをなんとか救いたいと切望し、ビザの発行許可を何度も日本政府に求めますが、ドイツとの同盟関係を懸念した政府からの返事は冷淡なものでした。しかし杉原千畝は本国の意に背き、自らの良心に従ってビザの発行を決意します。そして欧州での戦火が広がり自分や家族の身に危険が迫る中、連日連夜、寝る間も惜しんでビザの書類を書き続けました。退去の当日も、列車に乗ってからも、ホームに詰めかける人々のために、1枚でも多く一人でも多く救えるようにと、最後の瞬間までビザを書き続けたのでした。彼の真に人道的で勇気ある行動により、約6000人のユダヤ人の命が救われたと言われています。

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住居を兼ねていた旧日本領事館。館内には今も当時のデスクが残されています。このデスクで、杉原千畝は腕がしびれて動かなくなるまで、ひたすらビザ発行の書類を書き続けていました。その場面を想像すると、胸に迫るものを感じます。。

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世界中から賞賛の尽きない杉原千畝ですが、日本政府の彼に対する処遇はまったく冷酷なものでした。辞令に背いたという理由で帰国後に官職を解かれ、外務省から追放のような扱いをされてしまったのです。杉原千畝の名誉が回復しその功績が再評価されたのは、残念ながら我が国の自発的なものではなく、海外からの要請によってでした。彼の消息を求めるユダヤ人たちが、日本政府に何度も粘り強い交渉をし、28年もの歳月をかけて彼の居場所を突き止めたのでした。杉原千畝は生前にイスラエルに招かれ、彼が発行したビザによって命を救われた人々と、軌跡の再会を果たしています。

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裏庭から見た杉原記念館。この右側面にあるドアが記念館への入口になっています。展示室では、第2次世界大戦時の世界情勢についてのパネル展示等があるほか、杉原千畝についての15分ほどのドキュメンタリー映像を観ることができます。

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旧領事館の玄関には「希望の門。命のヴィザ」と刻まれてました。絶望的な状況の中、最後の望みを託してここへ詰めかけた人々にとって、ここはまさに明日への「希望」へと通じる門だったのでしょう。杉原千畝の功績はリトアニアでは広く知られていて、ヴィリニュスにはその名を冠した通りがあったり、彼の偉業を讃えて桜の植樹が行われていたりしています。遠い国リトアニアの地に、日本の桜が咲いてるなんて。素晴らしいですね。。。(今年のニュース記事→http://www.afpbb.com/articles/-/3012632

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ちなみに、「杉原記念館」がある場所は、カウナス新市街の聖ミカエル教会よりもっと東に外れたところ。閑静な住宅街の中にひっそりとあります。地図ではカウナス駅&バスターミナルから近いように見えますが、道なりに歩くと意外に距離があります。小高い丘陵地になっていて、この長〜い階段を登って行くことになります。正直、かなりきつかった。。(^^;) 〈続〉

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「杉原記念館」並びの建物の脇からカウナスの街を見下ろした景色。結構な高さでしょ?

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ライスヴェス通りをまっすぐ西に歩いて行って、地下道を抜けるとそこが旧市街。それまで歩いてきたカウナスの新市街とは、がらりと街の表情が変わります。

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カウナスの街の歴史は古く、10世紀にまで遡ります。15世紀にはハンザ同盟都市となり、交易の要として繁栄。その後は列強からの侵攻を受けて街が荒廃してしまいますが、19世紀に鉄道が開通すると諸工業が盛んになり、リトアニア最大の工業都市へと発展します。1920年から第二次世界大戦期までの間は、ポーランドに併合されたヴィリニュスに代わってリトアニアの首都となっていた時代もありました。

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旧市街には、ハンザ同盟都市として栄えた時代の歴史的な建物が、今も数多く残されています。けっして規模は大きくないのだけれど、中世の面影を宿す美しい街並。

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印象に残ったのは、画廊やアート雑貨のお店がたくさんあったこと。アーティストたちに愛されている街なのかもしれません。観光客向けの土産品なども、ヴィリニュスよりカウナスの方がセンス良かったように感じました。

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通りがかりの雑貨屋さんで見つけた、とても素敵なブックマークとカード。イラストがとてもかわいくて、木の素材感も作品にフィットしてます(この作家さんのHPを見つけました→http://www.mediniai-atvirukai.lt)。

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赤煉瓦が印象的なこの風格ある建物は、有名な聖ペテロ&パウロ大聖堂。

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15世紀に建てられた教会で、外観がゴシック建築、内部はバロック様式になっています。教会の内部は壁一面を美しいフレスコ画で飾られ、見事な彫刻が施された祭壇も素晴らしい。

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カナウス城は、13世紀にドイツ騎士団からの侵略を防ぐために建てられた城。現在は塔と城壁の一部が残されただけになっています。塔の上の部分も近年に修復されたようです。

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「異民族のキリスト教化」を掲げて、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は、遠征当初から本来の宗教的な目的を失っており、その実態は「北方諸国の植民地化」でした。ローマ教皇からお墨付きをもらい、世俗最高権力である神聖ローマ皇帝の思惑とも重なって、征服事業は拡大を続けます。その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」。13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセンの地(現在のカリーニングラード〜ポーランド北部)に活動拠点を移し、先住民であるプロイセン人を制圧。その後も略奪と搾取を重ねながら莫大な富を築き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家を形成します。しかし、周辺諸国の貴族を集めて人間狩りツアーを開催するなど、その残虐きわまりない性質と傍若無人ぶりは、後にローマ教皇の怒りを買うほどでした。

ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部〜エストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎士団を吸収し、さらに現在のリトアニアの地へと侵攻します。それに対し、ミンダウカス王の元に諸部族が結集してリトアニア大公国が誕生。強大な戦力を形成してドイツ騎士団を押し返しました。その後は互いが侵略行為を重ね、拮抗した戦争状態が続くのですが、同じくドイツ騎士団と領土問題で対立を深めるポーランドとの同盟関係が成立。1385年、ついにリトアニアはキリスト教を受け入れ(当初は形式的なものだったようです)、両国は連合国となってドイツ騎士団と対立します。異教徒との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し、互いの存亡をかけた総力戦へ突入。そしてポーランド・リトアニア連合は1410年の「グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与えます。ドイツ騎士団は徐々に衰退しやがて消滅。ポーランド・リトアニア連合国はヨーロッパ最大領土の国へと発展し、その後200年に渡る黄金時代を築くのです。

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ドイツ騎士団との攻防に重要な役割を担ったカウナス城。今では朽ち果てた城壁を眺めながら、そんな歴史の一幕に想いを馳せてみました。

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カウナス城を後にした頃は、いつの間にか陽が落ちていました。旧市街をぶらぶらと歩いて、また行き当たりばったりのレストランに入ってみることに。こういう時はほとんどガイドブックのお世話になることはありません。勢いと勘がすべて。。(^^;)

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中に入ってみると、こじんまりとした店内でしたが、とてもいい感じの雰囲気。地元の常連客が中心のお店のようでしたが、はじめて飛び込んで来た私たちに対しても店員の方はとても親切な対応。そしてワインのメニューがとても充実してるようでしたよ。

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ここで注文した料理は、ポークのソテーとサーモンのタルタルソース添え。もちろん、リトアニアの郷土料理というわけではないのですが、ここの料理は本当に美味しかった(写真ではイマイチに見えるかもしれませんが...)。シェフがとても丁寧に料理を作っているのが伝わってくる感じ。今回のバルト三国の旅の中で、一番美味しかったかも。

「Senamiesčio vyninė(http://www.senamiesciovynine.lt)」というお店です。メインの通りから少し奥まった路地にあるので、ぜひ探してみてください♪〈続〉

一夜明け、さっそく新市街に出てみると、前夜に見た暗く寂しい景色が嘘のよう。

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カウナスは、首都ヴィリニュスに次ぐリトアニア第2の都市。新市街にはオープンカフェやレストラン、様々なショップが建ち並び、劇場や美術館・博物館もこの辺りに集中しています。市内にいくつかの大学があるようで、観光地というより学生街ような雰囲気。もちろん学生ばかりでなく、ビジネスマンや家族連れ、子供たちの姿も多く、街全体にとても活気があります。

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新市街の中央を、東西に伸びるまっすぐな一本道がライスヴェス通り。この美しい並木道に感銘受けるのですが、もしかしたらその背景には、共産主義時代の暗い歴史が隠されているのかもしれません...。

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ライスヴェス通りの東側の端っこにある独立広場と、聖ミカエル教会。元々は正教の教会として建てられたものが、その後カトリック教会に変わったそうです。ソ連占領時代には美術館に変えられ、独立後に再びカトリック教会に戻されました。

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向こう側に見える風格ある建物は、国立大学の"Vytautas Magnus University"。お昼時だったので、校舎からたくさんの学生達が飛び出してきました。

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さて、リトアニアでの最初のランチ。適当に選んだオープンカフェ風なレストランに入ってみました。リトアニアの郷土料理と言えば、一番有名なのがこの「ツェペリナイ」。飛行船「ツェペリン号」に形が似ていることから、「ツェペリナイ」と呼ばれるようになったんだとか。

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このもちっとした外側は、じゃがいもをすりおろして片栗粉で固めたもの。中には肉団子が埋まっています。サワークリームを絡めて食べるのが一般的なスタイルのようですが、他にもソースや具材によって、いろんな種類があるようでした。

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びっくりするのがこのピンク色の冷スープ。。。でも飲んで見ると意外にすっきした味。酸味がきいてます。このピンクの正体は、ビーツにサワークリームを混ぜたものなのだそうです。リトアニアの伝統的な料理ですが、ポーランドでも同じようなスープをよく見かけました。

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これはリトアニアの料理というわけではないのでしょうが、シチューの上にパン生地(ピザ生地?)が被せてあるやつがとても美味しかった。リトアニアではピザが人気のようで、街のあちこちでピザ屋を見かけました。何しろ、ピザの発祥がリトアニアという説??もあるそうです。このお店でも私の周りのテーブルでは、ピザを食べてる人ばかり。しかも大きなピザ1枚を、女性一人でペロリと完食してましたよ。。。

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カウナスの中心となる新市街と旧市街は、東西に渡って横長に連なっています。有名な杉原記念館やバスターミナルがあるのは東の端にあるエリアで、旧市街があるのは反対側の西端のエリア。聖ミカエル教会から旧市街までは、歩くと結構な距離があるのですが、トラムで素通りして旧市街だけ見て帰るのはもったいないです。カウナスの新市街も素敵な街並ですので、ぜひゆっくり歩いみてくださいね。〈続〉

十字架の丘を見学したあと、再びシャウレイへ戻りました。

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シャウレイも歴史の深い町なのですが、二度の大戦で大きな被害を被ったため歴史的な建物はほとんど残っていません。きれいに整備された現代的な街という印象で、バスターミナル周辺をちょっと歩いただけでは、興味ひかれるものを見いだせなかったです。

ちなみに、十字架の丘までタクシーを利用する場合は、ツーリスト・インフォメーションまで行って(10分くらい歩きます)、そこで呼んでもらう方が無難です。バスターミナル周辺のタクシーはぼられることが多いらしいので。私たちは往復で50Lt(=約2000円)くらいでした。

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この日は、移動の多い一日。またここからバスに乗ってカウナスへ向かいます。リトアニア中部の都市・カウナスまでは、2時間半〜3時間くらいの距離。

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中部の地方へと向かうにつれて、急に田舎の度合いが深まります。「田舎」というよりは、「異世界」の度合いとでも云うべきでしょうか。なんでもない平野の風景にも、未知なるものへのときめきを感じました。

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やっとカウナスに到着したのは夜の8時くらい。バスターミナルは町の中心地から離れた場所にあったので、この日の宿をバスターミナルのすぐ近くに取っておいて正解でした。

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バスターミナルのすぐ近くにカウナス駅もあるのですが、周辺は人通りも少なくてかなり寂しい感じ...。この怪しげな雰囲気も、それはそれで情緒があるのですが。

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この日は長時間のバス移動でくたくた・・・。なので、ホテルの部屋で買い出ししてきた食べ物を広げての晩餐。シャウレイのバスターミナルがショッピングセンターに隣接していたので、そこで夕飯の買い出しをしておいたのです。

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滞在先の地元のスーパーとかで買物するのは、旅の醍醐味のひとつ。観光客を目当てにした市場よりも、その土地の人々の本来の暮らしぶりを垣間見ることができます。

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種類豊富な乳製品。色とりどりのパッケージ。ヨーグルトはプレーンなものより、フルーツを混ぜた少し甘めなものが人気のようでした。豚肉、ジャガイモ、乳製品が、リトアニア料理の基本的な食材。

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惣菜のコーナーには、今まで見たこともない魅力的な料理がいっぱい。。。

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一番気になったのがこの渦巻き状のやつ。「これはいったい何?」と、売り場の美人の店員さんに聞いたら「じゃがいもの腸詰め」と教えてくれました。「ヴェダレイ」というリトアニアの郷土料理。とても気になったので買ってみましたが、意外にもあっさりした味でとても美味しかったです。醤油をちょこっとつけて食べたら、餃子のような味になったから不思議。。(笑)

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さっそく、リトアニアのビールも味見。リトアニアのビールも実にうまい。。。エストニアのビールとも、ラトビアのビールとも違っていて、ちょっとだけフルーティーな風味があって個性的。でもベルギービールほど香りが強い感じではなくて、ビール本来の旨味をしっかり感じることができる美味しいビールでした。

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翌朝、部屋の窓から見た景色。ネムナス川を挟んだ向こう岸は小高い丘稜地になっていて、大小の住宅や古びた工場が連なっていました。〈続〉

旅の6日目。いよいよリトアニアへ向けて出発。ラトビアにいる間はずっと晴天が続いていたのですが、この日は朝から雨模様。空を厚い雲が覆っていました。

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リガの中央バスターミナルの切符売り場。この日の最初の目的地は、リトアニアの「十字架の丘」。リガからカリーニングラード(飛び地になっているロシア領)行きのバスに乗り、シャウレイという町まで行って、そこからバスかタクシーに乗り換えます。

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リガを離れてしばらく走ると、荒涼とした風景が広がっていました。ラトビア郊外の長閑な田園風景とはかなり印象が違って見える。

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シャウレイまでは約3時間の道程。この時に乗ったバスは古びた車両で、ガタゴトとよく揺れました。椅子のクッションは固いし、変な匂いがこもっているし、ゆっくり寝ることもできません。タリン〜リガ間で乗った快適なバスとは雲泥の差...。

途中の休憩所に飾ってあったレリーフ作品が、リトアニアらしくってとても素敵でした。装飾部分に見られる美意識が、西欧圏のものとは明らかに違っていて面白い。

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そういえば、このバスの車中で面白い出来事がありました。車窓から写真を撮っていたら、斜め後ろの席にいたガタイのいいおじさんが突然立ち上がって、「こっちに来い」と手招きするのです。「何???」と思いながらも言われるがまま隣りへ行くと、私の腕をがっちりと抱え込んで逃げられない状況に......。そして私のカメラを指差しながら、熱のこもった声で何かを話し始めました。リトアニア語なのかロシア語なのか、言ってることはまったく理解できません。

何か気に障ることことをしてしまったんだろうか??・・・不安になって周りを見回すと、乗客たちはこちらの様子を見て微笑んでいる...(^^;)。とりあえず、やばい状況ではないらしい。あらためて彼の言葉に耳を傾けていたら、なんとなく言いたいことがわかってきたから不思議。。。どうやら「こっち側の窓から写真を撮れ」ということらしい。「わかった」と私も日本語で応じました。「ここから撮ればいいの?」「違う!もうちょっと行った所」「この辺?」「よし、ここだ!」と彼が叫んだタイミングでシャッターを押したのがこの写真。。

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う〜む・・・さっぱり意味が分かりませんね・・・(^^;)。

でもこの写真をカメラのプレビュー画面で確認したら、彼は満足げな笑顔で握手してくれて、ようやく私のことを解放してくれました。周りの乗客たちも、みな笑顔でした。

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そんなことがありつつも、無事にシャウレイのバスターミナルに到着。そこからタクシーに乗って15分ほどで「十字架の丘」の入口に着きました。何もない広大な平原の中に、一本道が伸びています。そして、遠くに十字架のシルエットが。。

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どんよりとした空の下、緑の平地の真ん中に、こんもりと浮き上がってくる十字架の丘。近づくにつれ、丘に突き刺さる無数の十字架の姿が見えてきました。写真では何度も見ていても実際に目の当たりにすると、その異様な光景に言葉を失います...。

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「十字架の丘」は、リトアニアの聖地。なぜここに十字架が立てられるようになったかは定かでないのですが、1831年のロシアに対する11月蜂起の後、その時処刑や流刑された人々のために立てられたのが始まりと言われています。以後は、抑圧者に対する抵抗の証しとして、そして、リトアニア人として民族アイデンティティーの象徴として、「十字架の丘」は特別な意味を持つようになったのです。ソ連に支配された時代には、当局はここをどうにかして排除しようとして、ブルドーザーで撤去しようしたり焼き払ったりしたのだけど、夜のうちにまた誰かがここに十字架を立てて行ったのだそうです。

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それにしても、なんと凄まじい数の十字架・・・。小高い丘の向こう側にもびっしりと、大小さまざまな十字架やロザリオが埋め尽くしていました。信仰心というよりも、心の「叫び」のようなものを感じます。

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十字架の造形に様々なスタイルのものがあって興味深い。リトアニアは国民の8割がカトリックの国。でもカトリックを受け入れたのは、14世紀末、悪名高いドイツ騎士団の侵攻に対向するためポーランド=リトアニアの連合国を締結したのが契機でした。それ以前は自然崇拝・多神教の信仰を持つ部族が主流で、異なる宗教が共存していたのです。キリスト教国になった後も、民衆の間ではアニミズムの世界観が根強く残ったのではないかと想像します。

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世界中から多くの人がここへ巡礼に訪れています。そして十字架の数は今も増え続けています。このバリエーション豊かな十字架には、多様な価値観を希求する意志と、少数者が抑圧されることのない平和な世界への願いが込められているように、私は感じました。

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さて、バスの車中での出来事ですが、十字架の丘に行ったあとで、ようやく彼が何をしたかったのかが理解できました。先程の写真を拡大してみたら、そこに写っていたのはなんと「十字架の丘」だったのです。彼は「十字架の丘がこの先に見えるんだよ、写真を撮るならこっちから撮っておきなさい」と親切に教えてくれていたのでした。遠い国から「十字架の丘」を見に来てくれた客人に、無骨な形で歓迎の意を示してくれたのだと思います。そんな出来事にも、「十字架の丘」が彼らにとってどれだけ大事なものかが伝わってきました。

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丘の入口にある土産売り場で出会ったかわいい猫。またおいでよ、と見送ってくれました。。〈続〉

ラトビアへ行ったら、外せない見所のひとつが「ユーゲントシュティール建築群」。バウスカからリガ市内に戻って、一息ついた頃はもう夕刻。新市街へと急ぎました。

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ユーゲントシュティール建築群がある場所は、新市街の北東側のエリア。アルベルタ通りとエリザベス通に集中しています。中央バスターミナルから旧市街を抜けてここまで歩くと、結構大変。地図で見るより実際は遠いので、最初からトラムを使う方が無難だと思います。

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リガは、ユーゲントシュティール建築の宝庫。「ユーゲントシュティール」とは、仏語の「アール・ヌーヴォー」に対応するドイツ語で、世紀末に展開された美術運動の総称です。動植物や女性のシルエットなどをモチーフとし、優美で複雑な曲線の装飾が特徴的。19世紀末から20世紀初頭、ロシア統治下に置かれたリガは、モスクワ、サンクトペテルブルクに続く大都市へと成長していました。リガ市内では建築ラッシュとなり、当時の最先端の建築スタイルとしてユーゲントシュティールの建築が数多く生み出されたのです。

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街を歩いていると、あちこちにユーゲントシュティールの装飾を見つけることができるのですが、その中でも傑出してるのがミハイル・エイゼンシュテインが手掛けた建物。ミハイル・エイゼンシュテインは、映画監督の巨匠セルゲイ・エイゼンシュタインのお父さん。周りの建物の中で、彼が手掛けたものは抜きん出た存在感を放っています。

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複雑な曲線で構成された装飾と、大胆に配置された直線とのコントラストが素晴しい。赤や青の色面も効果的に配置されていて、見る人に強い印象を与えます。この重厚な美しさに、ただただ感嘆してしまいます。。

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これはエイゼンシュタインの作品ではないのですが、外観がとてもユニーク。ラトビア人建築家が建てたもので、現在は「アール・ヌーヴォー博物館」となっています。遅い時間になってしまったので中に入れなかったのですが、この建物内の螺旋階段が非常に美しくて有名。

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柱の部分に大きく配置された顔や、女性をモチーフにした飾りがとてもユニーク。

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夢中になって写真を撮っていたら、いつの間にか周りは真っ暗。もっと早い時間に見に来れば良かったと激しく後悔・・・。でもこの素晴しい建築群を見ることができて、本当に良かった。この素晴しい建築群が戦争で破壊されずに、良い状態で今日まで残っていることは奇跡でしょう。リガに行かれた方は必ず見に行った方がいいと思います。

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そうそう、ラトビアではふたつのとても素敵な出会いがありました。
ユーゲントシュティール建築群を見た帰り、旧市街に戻る途中で「あの、もしかして日本人ですか?」と話しかけてくれた青年がいました。とても流暢な日本語でびっくりしたのですが、彼はラトビア大学に留学中のウズベキスタン人。ウズベキスタンでも日本語をずっと勉強していたそうで、トラムの中で私たちが話している日本語を聞いて、思いきって声をかけてくれたのでした。とても目のきれいな、ハンサムな青年。誠実で優しい性格がひと目で伝わってきました。

彼は日本語で会話できることをとても喜んでくれて、せっかくの機会だからと夕飯をご一緒することに。食事しながら、日本の文化を好きになったきっかけや、故国ウズベキスタンのことなどを、いろいろ聞かせていただいたり。彼のおかげでウズベキスタンという国のことが身近に感じられるようになりました。近い将来、必ずウズベキスタンへ行ってみたい。

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そしてもうひとつの出会いは、リガ在住の日本人の素敵なご夫婦。その方とは、たまたまTwitterで知り合っただけだったのですが、私がリガに到着したことをつぶやいたら、「良かったら食事ご一緒しませんか?」と声をかけてくださったのです!まったく面識がなかったにもかかわらず、そんな風にあたたかく接してくださって、いたく感動したのでした。

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そして、お二人が案内してくださったのがこの「RozenGrāls」という店。ヨーロッパ中世風料理や、ラトビアの郷土料理を楽しむことができる人気のレストラン。この建物は13世紀に建てられたものなのだそうです。お店の外観も店内も、隅々まで中世風な演出が施されています。薄暗い空間にロウソクが灯してあって、とてもロマンチックな雰囲気。

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お二人にセレクトしていただいたのが、この兎の料理。兎を食べるのははじめてでしたが、旨味がしっかりある鶏肉のような感じ。濃厚なソースとの相性抜群で、すごく美味しい♪ 雰囲気だけではなく、どの料理もレベルが高かったです。そして、ラトビアの地ビールが豊富に揃っていて素晴しかった。

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忘れられないのが、麻布に包まれて出てきた素朴な造りのパン。見た目は無骨だけど、パン生地の風味が香ばしく、味わい深いパンでした。

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ラトビアでの暮らしぶりや日本との違いのことなど、楽しい話題に盛り上がっていたら、突然、古楽器を使ったライブ演奏が始まってびっくり。古楽の美しい音色にうっとりしながら聞いていると、ますますビールの杯が進むのでした。。〈続〉

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夜のリガ旧市街の街並は、いっそうロマンティックな雰囲気に包まれます。ラトビアではそんな素敵な出会いがあったおかげで、特別に楽しいひとときを過ごすことができました。今も忘れられない思い出。いつかまた彼らと再会してみたいな。〈続〉

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