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Writings

とある吉祥寺の飲み屋さん

4月1日の日曜日。吉祥寺で友人たち大勢と花見を楽しんだ。皆と別れた後、せっかく吉祥寺に来たんだからと思って、昔住んでいたアパートの近所にあった、馴染みの飲み屋さんに顔を出してみた。そのお店に行くのは、もう7年ぶりくらい。カウンターだけの小さなお店で、とても気概のいいママさん(おばあさん)がひとりでやっている。本当にひさしぶりだったのだけど、ママさんも常連のお客さんも私のことを覚えていてくれて、お店に入った途端皆が大きな声を上げて喜んでくれた。

そのお店によく通ったのは、私がまだ学生だった頃のこと。大学の先生に連れられて行ったのが最初で、その後は一人でときどきぶらっと寄ったりしていた。私が顔を出すと、お店の人達はいつも喜んでくれた。オジサン達の隠れ家のような赤提灯のお店に、学生が一人でやってくるのが珍しかったんだと思う。常連の客達は、ちょっと変わった経歴の人が多くって、お酒を交わしながらいろんな話題で議論するのが楽しかった。ちょっと調子に乗り過ぎて、生意気なことを言って怒られたりしたこともあったけど。
ある時、お店の人達に私の絵を見てもらう機会があって、そしたら皆がとてもいい絵だと誉めてくれた。それからは皆がいつも私に「絵は描いてるか?」と声をかけてくれるようになった。しばらくの間、壁に絵はがきを飾ってくれてたこともあって、いろんな興味深い批評をしてくれたり、感動したと涙ぐんでくれた人もいた。あのお店の人達が、いつも私をあたたかく迎えてくれて励ましてくれたのが、今でも忘れられない想い出になっている。

あれからずいぶん時が過ぎた。私は今日で35歳になった。いろんなことが、あの頃とは変わってしまった。自分の内側も外側も、自分の周りの世界も。でもけっして変わっていないことだってたくさんある。あのお店は、あの人達は、あの頃のまま何も変わっていなかった。あの時とまったく同じ調子で、「絵は描いてるか?」って皆が声をかけてくれた。そのことが、なんだかたまらなくうれしかった。この人達のためにも、私はがんばって絵を描き続けていこうって思った。大事なことを確認できた気がする。

サビのない人

最近、村上春樹のエッセイ集『村上ラヂオ』を読んでいる。とても小気味いい文章で、書かれた内容にも共感することが多い。「うんうん、そうそう」と、心でうなずきながら、ついほくそ笑んでしまったりする。電車の中とかで私がこの本を読んでる時、きっとニヤニヤしてしまったりしてるから、端で見てる人はおかしいだろうな。

ある話の中に「サビのない人」という表現が出てくる。言ってることのひとつひとつは一見まともなんだけど、全体的な世界の展開に深みがないというか、サーキットに入っちゃってて出口が見えないというか…。そういう人と会って話をするとぐったり疲れるし、その疲労感は意外に尾を引く---とのこと。本当にその通りだと思う。

逆に、「サビばかり」の話をする人もいる。「それはああいうもんだ。つまりこういうことだ」と、紋切り口調を延々と聞かされると、だんだんうんざりした気分になってくる。その結論に至るまでの、その人なりの考える根拠や道筋って、いったい何なの?と途中でつっこみたくなる。

どっちのタイプの人とも、できれば同席ご容赦願いたいものだ。

ある晴れた日に

海を見てきた。

波は低く静かで、海面のあちこちで光がキラキラと輝いていた。空は真っ青に澄み渡り、遠くの山々の雪化粧を鮮やかに写し出していた。鳥たちが気持ち良さそうに風に乗って流れていった。人陰まばらな砂浜を歩きながら、なんとも言えない心持ちになった。

漁港の脇にある小さな小屋の片隅に、野良猫達がたくさん住みついていて、その猫達に友人が餌をやりに行くと言うので、私もついて行った。猫達はなかなかの大所帯で、子猫もたくさん、10匹、20匹と、あちことからどこからともなく集まってきた。紛れもなく野良猫なのだけど、どうやらこの辺の猫達は食べ物が豊富らしく、皆丸々と太っていて優しい顔をしていた。「お前たち野良猫なんだから、もうちょっと厳しさ感じてなきゃダメじゃないか」、なんて、声に出さない声で話し掛けてみたり。

ただ海を見ているだけで、とても穏やかな気持ちになれる。ささいなことに気分を浮き沈みしている自分が、なんだか馬鹿みたいに思えてくる。もっとおおらかな気持ちをもたなければなぁ。

ふとそんなことを感じながら過ごした、平日の朝。
さて仕事に戻らなければ。

2001年、大晦日

この一年も今日でおしまい。今年は自分にとっての転機となる大事な年になった。会社から離れ、一人で仕事をしていくスタートラインに立った。会社とは結局ケンカ別れになってしまったけれど、それだからこそ余計にがんばっていく覚悟がついた。いろんなことがあったけれど、過ぎてしまえばどれも大切な思い出のひとつかみ。やっといろんなことを整理して考えられるようになってきた。今となっては私が反省することもたくさんある。
あの時を思い起こすと、私の頭も心も平常ではなかった気がする。いつも気持ちに余裕がなく、いつも苛立っていた。私はとにかくあの場にいる時の自分が嫌いだった。自分で言い訳を考えて、自分で身動きできない状況を作っている、そんな自分が嫌いだった…。自分の求めるものがもうそこにはないことは、ずっと前からわかっていた。どこかで道を選ばないといけなかった。

何の見通しもなく一人で仕事を始めたのだけど、どうにか仕事を続けていく環境が整いつつある。少しづつだけど仕事が広がってきたし、方向も見えてきた。以前お世話になった業者さん達が私の仕事をサポートしてくれたことが大きかった。わざわざ私の今の所在を問い合わせて、連絡をくれたお客さんもいた。私の周りのたくさんの人達が、いろんな形で応援してくださるのが本当にうれしい。今の私にとっては、仕事の苦労や喜びを分かち合える人達の存在が、何より大事なものだと感じられる。

少し前まで、自分の可能性は限られたものでしかないと思っていた。でも今は自分次第でいくらでも道を切り拓いていけると思えるし、たくさんの選択肢が広がっていると感じられる。それはとても幸せなことだと思う。もちろん大変なことはたくさんあるし、これから先の不安は今まで以上に重く自分にのしかかる。でも私はいい選択をしたんだと思う。将来ずっと後になってからも、この時の自分の決心が本当に良かったと振り返れるよう、これからの仕事に全力で取り組んでいきたいと思う。

表現者とメディア

JPC Conference 2001】に参加してきた。

このカンファレンスに参加するのは2回目。とても面白そうな課目が揃っていたので、朝起きして会場の多摩美キャンパスまで足を運んだ。一日目は『デジタル送稿DAY』を掲げたカンファレンスとセミナーが開催された。午前中私が選んだセミナーは『カラーマネージメント、リモートプルーフ、PDF etc...最新ワークフローによる雑誌制作の現場』、午後は合同のカンファレンスで、電子送稿の実情やそのワークフローのあり方や問題点、課題についてのスピーチやディスカッションがあった。午前10時から始まって、終わったのは夜の7時近く。こんなに長い時間集中して講議を受けたのは、大学にいた時さえなかった気がする。終わる頃にはもうぐったり・・・。いろいろ考えさせられて、とても良い時間が持てたのだけど。

二日目は『パブリッシング ニューメディアDAY』。オープニングは村上 龍×伊藤穰一という豪華ゲストの対談があった。「表現者とメディア」というテーマで、新しいメディアは表現する側にどのような影響を与えるのか、それは私たちの生活にどのような変化をもたらすのか、を語ってもらう内容。しかし二人が話し始めるとどんどん脱線していって、途中から時間も気にしないくらい話が盛り上がって楽しかった。

そもそもメディアとは何なのか、表現とは何なのか、これからの時代に何を表現していくのか、表現する必要をどこに感じていくのかという、本質的な問題にまで踏み込んだ議論となった。話を聞きながら、いろいろと考えさせられた。結局大事なことはメディアの有り様ではなく、私たち自身の生き方の問題なのだと気づかされる・・・。

近年本の売り上げは連続して落ち込んでいる。映画業界も冷えきっている。音楽業界もいくつかの「大ブレーク」をかすかな生命線としている現状だ。旧式のメディアは消費を生まない、もう井戸は枯れてしまったとばかりに、皆が新しいメディアへ横滑りして新しいビジネスを期待する。
一方で、「大事なのはコンテンツ、その中身」と言われ続けて久しい。大きな企業はこぞって、新しいコンテンツ探しに躍起になっている。でもそこで言われているコンテンツとはそもそも何なのか?実際、新しいメディアは新しい消費を生んでいるのか?新しい技術の登場で何かが変わったのか? 
—---何も変わっていないのだ。以前より豊かになった分野など見当たらない。新しいメディアに特性を発揮した表現が、何かしら現れ始めたとも思えない。企業が提供するコンテンツはどれも皆、相変わらず大量生産・大量消費を前提とした価値観を反映したものでしかない。

長い間私たちの世界では、大きくなること、数が増えること、成長していくことが何より価値を持っていた。国でも、企業でも、私たち自身の生活の中でも、それは信仰にも近い扱いで優先されてきたと思う。でも今では誰もがそんなものは幻想だったと知っているし、永久的な成長などあり得ないとわかってしまった。まず私たちの価値観が変わりつつある。そしてメディアの果たす役割も変わってきた。今はその大きな転換期にあるのだと思う。
しかしメディアに携わる人達は、相も変わらず同じような情報を発信してばかりいる。そして私たちも、相も変わらず同じような情報にしがみついて生きている。ちょっといいお店、ちょっとかわいい服を知って、それが私たちの生活にどれほどの意味を持つというのか。そこに何もないことがわかっていても、私たちはやっぱりテレビや週刊誌やスポーツ新聞を見ることに、毎日たくさんの時間を潰してしまう。私たちは周りの人達から遅れてしまうことを、そこから外れてしまうことを、何より恐いと思うからだ。私たち自身のこの体質を変えない限り、日常の風景も変わっていかないだろう。本当に必要な情報は得られないだろう。生活は豊かにならないだろう。住み心地のいい世界は拓けていかないだろう。

日々変化の幅は大きく、そのスピードも早い。新しい時代の波に乗っていくことは大切なことだと思う。でもその一方で大事なことは、周りの変化に振り回されないための「自力」を、自らが培っていくことだと思う。そのための時間とエネルギーを費やす努力なくして、この不毛な競争の監獄から抜け出すことはできないだろう。

伊藤穰一が語っていた。—---経済的な成長が何よりも優先される時代は終わった。お金は既存の社会の中での、ただの約束事に過ぎない。お金が人を「ハッピー」にはしてくれない。お金自体に価値はなく、お金をバリューに変えていく技術や手段こそが大事—--- 心にグッっとくるメッセージをシンプルな言葉で伝えてくれた。

ハッピーであること。そういうシンプルな考え方が、今の時代に一番必要なことかもしれない。今はまだ「ハッピー」を測る物差が揃っていない。私たち自身のライフスタイルの選択の仕方が問われているのだと思う。

いろいろと考えさせられることの多い二日間だった。

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